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蛭川研究室

蛭川研究室の「はてなブログ」版です

干支

干支の由来

十干(じっかん)とは、陰陽五行の2×5=10となる分類体系で、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸からなる。また、それぞれを、木・火・土・金・水の五行の陰陽として、木兄(きのえ)・木弟(きのと)…と呼ぶこともある。陰陽と五行を結びつけて十干とするものは、『呂氏春秋』(戦国時代)に成立したとされる。

十二支(じゅうにし)とは、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12個からなる分類体系である。これは、ネズミ、ウシ、トラ、ウサギ、竜(想像上の動物)、ヘビ、ウマ、ヒツジ、サル、ニワトリ、イヌ、イノシシという12種の動物からなるトーテミズムに由来する。いっぽう、気功の原始的な形態を残す五禽戯では、トラ、トリ、サル、シカ、クマの五種類の動物の動きを真似る動作をする。

現代では、十干と十二支を年に当てはめて、その最小公倍数である60年で一周するサイクル(還暦)の暦が使われている。60年は、木星の公転周期(約12年)と土星の公転周期(約30年)の最小公倍数でもある。

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殷(商)の時代の甲骨文[*1]。欠損部分を補うと、左から甲寅・乙卯・甲辰・乙巳・甲午・乙未・甲申・乙酉・甲戌・乙亥・甲子・乙丑と書かれていると推測される。すでにこの時代に60日で一周するカレンダーが使われていたらしい。

文字に記録された商王の名には甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の文字が多く使われている。これは、王が生まれた日を表すとも、王が属していた氏族の名だともされる。後者の説からは、古代の漢民族の社会が、5個のサブセクションに分かれる半族(5×2)という構造を持っていたことが推測される。これは陰陽五行説の起源となった可能性がある。より古い仰韶文化を代表する、西安の半坡遺跡からは、南北に分割された円形の集落跡が見つかっており、この時代の漢民族の社会が半族を持っていたことを示唆している。半族がサブセクションに分かれる親族構造は、オーストラリア先住民の社会で発達している。(黄河文明を時代順に俯瞰すると、仰韶文化、龍山文化、二里頭文化(夏?)、殷(商)…という順になる。)

人間の親族集団や年月に、なぜ特定の動物や自然現象の名前をつけるのだろうか。かつては、古代の人々が人間の集団と特定の動物とを結びつける原始的な信仰(トーテミズム)を持っていたのだと考えられてきた。構造主義以降の人類学では、人間は分類したいから分類するのであり、その分類された集団(シニフィエ signifié)と動物の名前(シニフィアン signifiant)は恣意的に結びつくと、またそれは文明社会においても存在すると考えられている。たとえば、特定の年の年賀状に、対応する動物の絵を描いたり、特定の氏族を動植物や自然現象の名前(姓)で呼ぶことは、現代の文明社会でも行われているが、それは(「蛭川」の氏族の人間がヒルのような性質を持つなど)我々が人間の集団と動物とを混同するほどの未開の思考にとらわれているからではない。

日本の丙午現象

こうした分類体系は、かならずしも過去の、抽象的な観念ではない。日本では江戸時代に、丙午(ひのえうま)=火兄生まれの女は男を喰う悪女であるという俗信が広まった。3サイクル前の1846年には女の子の間引きが増えたとも言われているが、統計的な資料はない。

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上の図[*2]は明治期以降の出生数と出生率、下の図[*3]は人工妊娠中絶件数を含めたものであるが、1906年に小さな落ち込みがあり、60年後の1966年にはより鋭い落ち込みがある。これは、避妊や妊娠中絶が一般化したからだという理由もあるが、俗信は時代とともに衰退するわけではなく、むしろより広がることもあるという好例である。もし娘が産まれたとして、将来結婚するときに差別されるかもしれない、といった心配があったのだろう。かりに社会の構成員全員が、自分は信じないが、周囲の人々が信じるかもしれない、と考えた場合、誰も信じている個人がいなかったとしても、その観念は社会的な実体となる。

次の丙午は西暦2026年である。

(2016-12-11 作成 12-12 更新 蛭川立