蛭川研究室

蛭川研究室の「はてなブログ」版です

陰陽五行の世界観

漢民族の世界観

民族を言語で定義するなら、漢民族は中国語を話す人たちだと定義できる。中国語というのは単一の言語というよりは、方言の集まりである。方言とはいっても、音声では互いに通じないほど違うので、方言と呼ぶのは適切ではないかもしれない。そこで意思疎通のために役立ってきたのが漢字という表意文字である。広東語や福建語(〜閩南語)など、主立った方言が華南に分布すること、シナ・チベット系の少数民族雲南など南西部に多いことから、漢民族は、もともとは南西部から拡散してきたと考えられる。同時に漢民族は、北西部から侵入してきたアルタイ系の牧畜民族と繰り返し混じり合うことで形成されてきた。

総じて漢民族の世界観は現世的・物質的である。殷(商)以前の時代には饕餮などの鬼神が信仰され、また卜占による政治が行われていたが、これは続く周の時代には衰退した。さらに春秋・戦国時代になると諸子百家と呼ばれる多様な思想が展開されるようになるが、それらの思想が目指すところは、個人においては病気の治癒と長寿、社会においてはよく国を治めることであった。のちに中華帝国を支える思想となる儒家の原典である『論語』には以下のようにある。

子、怪力乱神ヲ語ラズ
論語』述而七[*1]

孔子は弟子の前で超自然的なことがらについて語らなかったという。「怪」は不可思議なこと、「力」は超人的な力のこと、「乱」は条理を乱すこと、「神」は人間を超えた神秘的な力のことである。これらの存在を肯定していて語らなかったのか、存在を否定していたのかもわからないが、超能力や神霊の類いについて語ることは、よき社会を実現する上では不必要だという思想の表れである。

諸子百家の中でもっとも神秘的な思弁を展開したのが『老子』『荘子』にはじまる老荘思想であり、そこでは「道 tao」という抽象的な概念が世界の第一原理として語られたが、「道」は人格を持った存在でも、祈祷の対象となる存在でもない。いずれにしても、老荘の思想は決して社会の主流にはならなかった。漢民族の民間信仰を道教と呼び、その起源を老荘思想に求める考えもあるが、おそらくは権威づけであろう。そして、現実の道教が祀るのは神のような存在というよりは、むしろ過去の偉人であり、人々は、福禄寿といった現世利益を求めて祈る。

陰陽五行説と十干

漢民族においては、簡単な整数の組み合わせからなる世界観が複雑に発展した。整数によって世界を整理する方法として、もっとも単純なものが二元論である。2以上の数では、まず、3、5、7、11、13といった奇数、とくに素数が通文化的に重要な役割を果たしてきた。とりわけ5は重要なであった。それは片手の指の本数であり、また肉眼で観察できる惑星の個数でもあった。各地の文化にみられる記数法は、5進法(南米先住民グアラニなど)、10進法(多くの文化)、20進法(古代マヤなど)が主である。

漢民族においては、身体という小宇宙(ミクロコスモス)を構成する要素は、陰陽五行というシンボリズムによって外界の大宇宙(マクロコスモス)を構成する要素と対応関係にあるとされた。

十干(じっかん)は、陰陽五行の2×5=10となる分類体系で、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸からなる。また、それぞれを、木・火・土・金・水の五行の陰陽として、木兄(きのえ)・木弟(きのと)…と呼ぶこともある。陰陽と五行を結びつけて十干とするものは、文献的には『呂氏春秋』(戦国時代)が初出とされるが、2×5=10という分類体系は、殷(商)王朝以前に遡ると考えられている。

f:id:ininsui:20161211175637p:plain

殷(商)の時代の甲骨文[*2]。欠損部分を補うと、左から甲寅・乙卯・甲辰・乙巳・甲午・乙未・甲申・乙酉・甲戌・乙亥・甲子・乙丑と書かれていると推測される。すでにこの時代に60日で一周するカレンダーが使われていたらしい。

文字に記録された商王の名には甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の文字が多く使われている。これは、王が生まれた日を表すとも、王が属していた氏族の名だともされる。後者の説からは、古代の漢民族の社会が、5個のサブセクションに分かれる半族(5×2)という構造を持っていたことが推測される。これは陰陽五行説の起源となった可能性がある。

より古い仰韶文化を代表する、西安の半坡遺跡からは、南北に分割された円形の集落跡が見つかっており、この時代の漢民族の社会が半族を持っていたことを示唆している。半族によって集落が二分される社会は多く(縄文人もそうだったかもしれない)、半族がサブセクションに分かれる親族構造は、オーストラリア先住民の社会で発達してきた。(黄河流域の諸文化・王朝を時代順に俯瞰すると、仰韶文化、龍山文化、二里頭文化(夏?)、殷(商)、周、春秋・戦国時代、秦…という順になる。)

十二支

一方で、12や24という、約数の多い数も、実用上の理由もあって好まれてきた。2でも割れ、3でも割れ、4でも割れる数は、扱いが便利だからである。

十二支(じゅうにし)は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥(または豚)の12個からなる分類体系である。それぞれ、ネズミ、ウシ、トラ、ウサギ、竜(想像上の動物)、ヘビ、ウマ、ヒツジ、サル、ニワトリ、イヌ、イノシシ(またはブタ)という12種の動物に相当し、これが12年で一周する暦に割り当てられる。この年に産まれた人物はこれらの動物に似た属性を帯びるとされるのは、トーテミズムの好例である。

いっぽう、気功の原始的な形態を残す五禽戯では、トラ、トリ、サル、シカ、クマの5種類の動物の動きを真似る動作をする。これもまた、一種のトーテミズムである。

十干と十二支を年に当てはめて、その最小公倍数である60年で一周するサイクル(還暦)の暦も使われる。60年は、木星の公転周期(約12年)と土星の公転周期(約30年)の最小公倍数でもある。ある程度重力の相互作用が強い天体どうしの軌道が簡単な整数比になるのは、力学的共鳴によるが、地球と木星土星の公転周期がおおよそ1:12:30になるのは偶然である。

トーテミズムから記号論

人間の親族集団や年月に、なぜ特定の動物や自然現象の名前をつけるのだろうか。かつての人類学では、古代の人々が人間の集団と特定の動物とを結びつける原始的な信仰(トーテミズム)を持っており、それは前論理的な錯誤だと見なされてきた。しかし、構造主義以降の人類学では、人間は分類したいから分類するのであり、その分類された集団(シニフィエ signifié)と動物の名前(シニフィアン signifiant)は恣意的に結びつくと、またそれは文明社会においても同様だと考えられるようになった。

たとえば、毎年、年始に、その年に対応する動物の絵を描いた紙片を交換し合うという習俗においては、その年と動物が対応すること自体が重要なのではなく、定型的な挨拶の言葉が記された紙片という、ある記号的なものが交換されることによって社会的な靱帯が維持されることが重要なのである。特定の氏族を動植物や自然現象の名前(姓)で呼ぶことは、現代の日本でも行われているが、「私は蛭川です」と言った場合、私という「人間」が「ヒル」であるという非論理的な主張をしているのではない。父方の氏族を他の氏族と区別するのに、便宜的にヒルという動物の名前を使っているにすぎない。

日本の丙午現象

こうした分類体系は、かならずしも過去の、抽象的な観念ではない。日本では江戸時代に、丙午(ひのえうま)=火兄生まれの女は男を喰う悪女であるという俗信が広まった。3サイクル前の1846年には女の子の間引きが増えたとも言われているが、統計的な資料はない。

f:id:ininsui:20161211181308g:plain

f:id:ininsui:20161211212249p:plain

上の図[*3]は明治期以降の出生数と出生率、下の図[*4]は人工妊娠中絶件数を含めたものであるが、1906年に小さな落ち込みがあり、60年後の1966年にはより鋭い落ち込みがある。これは、避妊や妊娠中絶が一般化したからだという理由もあるが、俗信は時代とともに衰退するわけではなく、より広がることさえあるという好例である。もし娘が産まれたとして、将来結婚するときに差別されるかもしれない、といった心配があったのだろう。かりに社会の構成員全員が、自分は信じないが、周囲の人々が信じるかもしれない、と考えた場合、かりに誰も信じている個人がいなかったとしても、その観念は社会的な実体となる。

次の丙午は西暦2026年である。

「気」と鍼灸

「気」(キ、qì)は漢民族的身体観、中医学の基本概念であり、もともと空気、とくに呼吸によって出入りする息の意味であった。それが同時に生命を構成する微細な物質としても捉えられるようになった。同じような考えはインドのプラーナ、チベットのルン、ユダヤのルーアー、ギリシアのプネウマ、ラテンのスピリトゥスなど、他の文化にもみられるが、漢民族の「気」の概念は、より物質的なニュアンスが強い。もともと「氣」は、沸騰した湯から湯気が立っている様子を書き写したものだという。

古代の漢民族は、生命は「気」の集まりであり、生まれつき持っている気(元気)は歳をとるとともに劣化、散逸し、やがて死に至ると考えられていた。そして、使用済みの古い気は体外に排出し、新鮮な気を体内に積極的に取り込むことで、生命力を高め、寿命を延ばすことができるとされた。これは、二酸化炭素を吐き出し、酸素を吸い込むことで生命活動が維持されるという近代医学の考えにも似ているところがあるが、元気が先天的であること、気を取り込み続ければ不死になると考えられていたところは異なる。

人ノ生ヤ、気ノ聚(アツ)マレルナリ、聚(アツ)マレバ則チ生ト為リ、散ズレバ則チ死ト為ル
荘子』知北遊篇:22

気功の起源はシャーマニズムにある。すでに触れたように、古代中国の巫(フ、wŭ:シャーマン)の舞踊(巫歩)、とくにトーテム動物をまねた神降ろしの舞踊から、春秋戦国時代の二禽戯、漢代の五禽戯 (虎、熊、鹿、猿、鶴)が発展したといわれている。そこからさらに漢代には導引(気を積極的に体内に取り込む術)が成立した。

吹呴(スイク)呼吸シ、吐故納新、熊経鳥申(ユウキョウチョウシン)スルハ、寿ヲ為スノミ
荘子』外編、刻意:15-1

ふつうに「気功 qìgōng」といえばこの導引気功のことを指す。最古の医学書とされる『黄帝内経』も春秋戦国時代には成立した。気は主に2+12本の経絡を流れ、その流れの異常によって病気になり、とくに経絡上の重要なポイントである経穴(ツボ)を刺激し、気の流れを調整することで病気を治すことができるとされた。

経絡が物理的実在なのか、象徴的概念なのかは不明である。経絡は解剖学的な実在ではない。しかし、ある種の電気的な現象としてとらえられるという研究もある[*5][*6]。

鍼灸の妥当性については研究が続けられており、偽針を使った研究などにより、その効果がプラセボ効果なのか、それ以上のものなのかについては議論が分かれている[*7]。ただし鍼灸に効果があったとしても、それは痛みや吐き気のような主観的な症状の緩和であって、客観的な病気の治癒ではないという批判もある。しかし、経絡に基づいた鍼灸医学が誤りであったとしても、人類学的には、身体と外界とを象徴的な体系によってまとめあげようとした、つまり「考えるのに適した bon à penser」ものとして、その構造自体に意味があるとみなさなければならない。

2006-11-20 作成 2016-12-13 更新 蛭川立