Necology: ネコの「事情」についての動物行動学的研究

 大げさにいえば、自分の研究の原点を見返そうということ、また「地域猫」活動の可能性について考えるためにも、近所のネコたちの数や生態を把握しておこうと、帰国後、東京の、ネコの額ほどの庭で、ネコ観察を始めてから、一年が経った。これがすっかり毎日、とくに週末の楽しみになってしまった。

 学部から修士にかけて、最初に取り組んだ学問的課題は、動物行動学と行動遺伝学である。指導教官は、井上民二、日高敏隆PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)法の発見に促され、ヒトゲノムの解読が、もうすぐ完了しようとしている時代だった。PCR法は遺伝的な父子関係を確認するためにも革新的な方法だった。ネコの行動学と遺伝学との接点を追求するために、霊長類研究所でネコ遺伝学の研究をしていた野澤謙先生に弟子入りしようかとも考えた。この流れは、同世代の山根明弘による「ノラネコロジー」へとつながった*1。私自身は、日高敏隆の退官後、人類集団遺伝学を研究するために、東大人類学教室の青木健一先生のもとに移動した。ネコは好きだが、最終的には、やはり人間の行動を基礎づける遺伝子=タンパク質について、もっと知りたかったからである。

 いわゆる京都学派のスタイルは、まず動物の行動が観察できる、開けた空間を確保すること。餌付けは、そこで動物を観察するための「必要悪」であり、できるだけ動物の生態を乱さないのが原則。(このことは、保護活動の原則には反するかもしれないが、それについての議論は、ここでは行わない。)一個体ずつ個体識別してノートに記録する。擬人化することはむしろ良いことで、だから個々にニックネームをつける。ニックネームは、直感的な感覚で決める。外見で「クロシロ」と呼んだり、性格で「フレンドリー」と呼んだりする。できる限り長く、最低でも季節が一周する一年は同じ場所で観察し続ける。

 現在までに、姿を消したネコも含め、メス6匹、オス9匹、合計15匹を個体識別した。全個体、毛並みが良く、栄養状態が良い。不妊手術済みの地域猫はメス1匹だけである。住宅密集地で、たとえ観察のために餌付けをしなくても、他のどこかで十分に食料を確保しているらしい。そのほかに、2匹以上のハクビシンも確認。ハクビシンは、夜間の数回の目撃で、顔や模様から性別を確かめ、個体識別するのが難しい。

 ネコの発情は、冬至をきっかけに、日が長くなることから始まる。直近の発情の「準備」が始まったのが2015年の11月下旬で、発情期の開始は12月、ピークは2016年の2月、ほぼ収まったのが5月である。発情はメスから始まり、そのフェロモンに誘発されてオスたちも発情する。オスの行動の変化のほうが、はっきりしている。とくに、オスどうしの縄張り争いが顕著になる。栄養状態が良く、近隣住民にも可愛がられていることが、逆に不自然に高い個体密度という状況を生み、オスネコたちにとっては、他のオスネコの存在が気になって仕方がないようである。イエネコの原種であるリビアヤマネコは、広大な半砂漠地帯で、広い縄張りを持って暮らしてきた。単独性であり、社会性は低いと学んできたのだが、観察してみると、都会ネコの社会性は、予想よりもずっと高かった。不自然な高密度で暮らすための、やむを得ない適応なのかもしれない。

 オスたちは(発情期のピークにあるメスたちも時々)尿を吹き付けたり、頬をこすりつけたり、爪研ぎをしたりして、マーキングをする。マーキングを行う場所は、特定の木の枝、細い草の先端など、どうしてこの場所が選ばれたのかという理由がわからないぐらい、ネコたちの相互の合意によって、恣意的に決められているようにみえる。オスネコたちは、間接的に匂い付けをしあうが、めったに直接衝突はしない。直接向かい合う場合でも、長い間唸りながら見合って、どちらかがあきらめて逃げるのが普通である。そして、勝ったオスは、負けたオスを深追いしない。自分の縄張りが確保できればいいのであって、リスクを冒してまで、他のネコの縄張りに侵入しようとはしない。一般に、年長で身体の大きなオスのほうが優位という傾向がある。「尖閣諸島/釣魚群島」や「竹島/独島」や、あるいは「マルビナス/フォークランド諸島」のような、小さな場所に、相互に上陸しあい、前に来た者が立てた国旗を抜き捨てて、自国の国旗を立て直し、撤退するという作業を繰り返している、とでも喩えれば良いのだろうか。これは、過度の擬人化だろうか。京都学派的なアプローチが、擬人化のしすぎによって客観性を欠いているという批判は理解できるが、擬人化することで、より共感的理解が深まることもある。

 しかし、ヒトと違って、今まで数百回観察したかぎりでは、ネコたちは決して直接物理的に傷つけ合っていない。耳を噛んで傷つけるという行動さえ観察されていない。ネコが優秀なハンターであることはいうまでもない。その瞬発力たるもの、一撃必殺である。それだけの能力を持ちながら、ネコたち同士は決して殺し合わない。同種間での、しかも集団的な殺戮行動が、人間にしかみられないことは、コンラート・ローレンツが『攻撃ー悪の自然史ー』*2の中で指摘したことである。同種殺しの例外的な事例は、チンパンジー社会などでも報告されているが、同種間攻撃の回避は、振り返って人間の行動を考える上で、重要な問題提起をしていることには変わりない。

 岸田秀は、人間は、同種間攻撃を抑制する「本能」が壊れた生物なのだ、と指摘した。だから「代理本能」として、象徴的な記号世界を発明したのだという。岸田は精神分析の立場に依っているが、人文社会系の多くの学問が、人間を動物「以上」の存在と見なしたり、逆に動物「以下」の存在と見なそうとする。日高敏隆はその人間観に抵抗した。人間もまた一種の動物なのだから、「以上」も「以下」もない。高等も下等もない。それぞれの種には、それぞれの種に固有の「事情」があるのだから、人間を特別扱いはしない、という立場である。文化人類学における文化相対主義とも通じる発想である。『日高敏隆の口説き文句』(岩波書店)の中で、岸田は、日高さんは、人間は文化を発明したから本能が壊れてしまったという、逆の因果関係を考えているだけで、二人の考えに違いはない、と述べているが、私の理解では、これは違う。日高さんは、「ヒト」という呼称を嫌い、「人間」という言葉を使いたがった。それは、生物としての「ヒト」が、文化を学習することでやっと一人前の「人間」になるという考えが、間違いだと考えていたからである。「人間」は生まれたときから「人間」であり、それは「ネコ」が生まれたときから「ネコ」であるのと同じことだ、という意味である*3

 たしかに、人間も、本当は大規模に直接的には殺し合いたくはないようにみえる。たとえば国境の紛争地帯に、象徴的に国旗を立てるという行為は、いかにも人間らしい行動である。棒の先に、縞模様や天体をデザインした長方形の布をつけ、それが風ではためく、その動きが、一種の解発因 releaser となり、そちらに注意が向くことで、象徴的な忠誠心は高まるが、逆に、身体的な攻撃性は抑制されるのではないだろうか。棒の先についた布という象徴は、チンパンジーやボノボが、葉がついた木の棒を引きずって走り回る行動とも似ている。

 逆に、ネコほどの知能を備えた動物であれば、視覚ではなく嗅覚で、ではあるが、やはり人間と同じような象徴的な概念を操作しており、むしろその世界のほうに、物理的な現実よりもリアリティを感じているようにもみえる。ある若いオスネコ「リビ」が、「匂い付けの場所」で、前に来た年長のオス「キナ」がつけていった匂いを入念にチェックしているところに、実物の「キナ」が現れても、匂いをかぐことに熱中するあまり、ライバルオスの物理的身体が至近距離まで近づいても気がつかなかった、ということもあった。

 もっとも、ここで結論として「ネコの社会的認知にも、ヒトと同様の記号的、象徴的な情報処理の萌芽がみられる」などと書けば、日高さんは、「ヒト」ではなく「人間」と書けとか、その「萌芽」という言葉は余計だとか、指導してくれるだろう。ネコはネコであり、何万年経っても人間へと進化するわけではない。目玉をキョロキョロさせて、何度も頷きながら「うん、うん、でも、ネコにはネコの『事情』がある」と言っている、そんな日高さんの姿が、まぶたの裏に浮かぶ。

冬至を過ぎて、ネコたちの繁殖期の2シーズン目に入った。2位、3位のクロマル、クロシロが成長、台頭し、1位のキナが失脚した模様。盛者必衰、おごれる猫も久しからず、である。ネコやイヌを飼うと癒やされる。憂うつな気分が軽減されるというが、落ちぶれていくネコの姿を見ると、むしろ生きることの哀しみを実感させられる。


(メスたちの興味深い行動については、また稿を改めて論じたい。)

(2016/07-09 作成 2017-01-11 更新 蛭川立

*1:山根明弘『ねこの秘密』『ねこはすごい』

*2:日高敏隆・久保和彦訳・みすず書房

*3:日高さんは、猫にかんしては、「ネコ」というカタカナ書きを好んでいたような気がする。『ネコたちをめぐる世界』という著書もある