蛭川研究室

蛭川研究室の「はてなブログ」版です

「麻薬」という民俗分類

ドラッグはなぜ禁止されるのか

 儀礼の中で、あるいは嗜好品として使われる向精神性の薬物・植物は、おおきく三種類に分類される。まず第一のグループが覚醒剤やコカイン、カフェイン、アレコリン(ビンロウジュの実の主成分)などの興奮剤で、眠気やだるさを取り除き、元気にさせてくれる。その反対の働きをするのがモルヒネ(アヘンの主成分)、ヘロインなどの抑制剤で、静かな満足感を与えてくれるので、活動性は逆に低下する。酒も抑制剤の一種だが、興奮剤的な作用もあわせもっている。LSDやアヤワスカの主成分DMTのような物質は、そのどちらにも分類されない。単純に心を興奮させるのでもなく、沈静させるのでもなく、意識の状態そのものを変容させてしまう。この三番目のカテゴリーの薬物は、幻覚剤とかサイケデリックスとか呼ばれ、大麻マリファナ)やカヴァも、効果は弱いがこの種類に分類できる。もっとも「幻覚剤」という表現はあまり適切でない。たしかに薬物の種類によっては、目を閉じるといろいろな模様や風景が見えることもあるが、それがこれらの物質の向精神作用の核心なのではない。いっぽうのサイケデリックス(psychedelics)とは、魂(プシケー)を顕現させるという意味で、無意識に眠っていたその人の心の本質を意識の水面の上に浮かび上がらせる作用をもつ。あるいは、エンテオゲン entheogenという呼び方もある。Theosというのは、ギリシア語で「神」という意味であり、強いて訳せば「顕神薬」となる。
 また、医学的な分類とは別に、それぞれの文化は独自の民俗分類の体系をもっている。向精神薬の分類にも、〈聖〉〈俗〉〈穢〉という三分法の概念がよくみられる。たとえば、ミクロネシアでは、ビンロウジュの実は〈俗なる〉日常的な嗜好品であり、シャカオ(カヴァ)は〈聖なる〉儀礼飲料であり、ビールやマリファナは〈穢れた〉邪悪なドラッグである。また現代の日本では、酒、タバコ、コーヒー、茶などが〈俗なる〉日常的な嗜好品とされていて、それ以外のほとんどの薬草・薬物は〈穢れた〉邪悪な「麻薬」とされている。何が正常で、なにが逸脱かの線引きは、文化によって少しずつ違う。現在の日本文化には〈聖なる〉薬物というカテゴリーはほとんど存在しなくなっているが、神社で売っている「大麻」というお札や、「御神酒」などの使用に、かつては大麻やお酒が〈聖なる〉ドラッグとして聖別されていたことの名残をみることができる。
 ところで、なぜ日本人の社会では、酒やタバコは日常的な嗜好品であり、コカインやLSDは邪悪なドラッグだとみなされるのだろうか。医学的には、向精神性薬物の害は、毒性、依存性、耐性の三種類に分類される。毒性はさらに身体毒性と精神毒性に分けられる。酒を大量に飲むと脳が麻痺して死ぬし、そうでなくても肝臓を痛める。これが身体毒性だ。また酔っ払うと思考が阻害され、急に攻撃的になることもある。これが精神毒性だ。しかし、毒性のない薬などない。要は量と使い方次第である。酒を口から飲むのは比較的安全で、覚醒剤を腕に注射するのは比較的危険だが、これは酒が安全で覚醒剤が危険なのだというよりは、経口摂取という方法が安全で、静脈注射という方法が危険なのである。もし、安全に覚醒剤を使いたければ、口から飲めばいい。効率よく酔いたいからといって、酒を静脈に注射したりすれば致命的である。
 しかし、快楽をもたらす薬物に特有の困った問題は、むしろ依存性と耐性にある。依存性というのは、一回使ったら、また使わずにはいられなくなるという性質のことである。依存性もまた、精神依存と身体依存に分類される。精神依存というのは、またやりたいという精神的な欲求が起こるということで、これぐらいのことは、薬物だけでなく、どんなことにでも、たとえば、音楽、セックス、旅行、スポーツ、美味しい食べ物など、あらゆる種類の娯楽でもごくふつうにあることで、それぐらいならとりたてて問題ではない。むしろ問題は身体依存のほうで、クスリをやめると身体的な変調(離脱症状)が現れるので、やめられなくなってしまう状況をいう。これに耐性が加わるとさらに厄介なことになる。耐性とは、同じ薬物を繰り返し使っていると、慣れが生じてきて、どんどん量を増やさないと効かなくなってくるという現象のことだ。
 身体的依存性と耐性がセットになると、依存性薬物特有の悪循環が起こる。薬物の快楽に溺れ、何度もやっているうちに耐性が生じて量が増えていき、薬を手に入れるための費用がどんどんかさみ、経済的には破綻、身体依存が生じて薬をやめるわけにはいかなくなり、毒性と離脱症状(禁断症状)で身も心もボロボロになり、最後は廃人になる、というストーリーができあがる。
 しかしじっさいには、興奮剤、抑制剤、サイケデリックスの三種類の薬物のうち、耐性と身体依存性があるのは、酒やヘロインのような抑制剤だけである。しかも、精神毒性で暴力をふるったり、離脱症状で痴呆のような悲惨なことが起こるのは酒だけで、アヘンやヘロインではそういうことは起こらない。だから、ここに書いたような、「麻薬」に溺れて身も心もボロボロ、というイメージに一番ぴったりする、もっとも危険な薬物は酒だということができる。にもかかわらず、酒はわれわれの民俗分類では邪悪な「麻薬」とはみなされていない。いっぽう、耐性はあっても身体依存性はない他の多くの薬物・植物は、危険なドラッグとして禁忌(タブー)になっている。
 そもそも、「麻薬」という言葉ひとつとっても、意味不明な概念だ。文字どおり読めば「麻」の「薬」のことなのだが、日本では、麻は、法律で禁止されている「麻薬」のリストには入っておらず、「大麻取締法」という別の法律で規制されている。歴史的な事情でそういうことになっているようなのだが、つまり、民俗分類というものは、歴史的、恣意的に形成されたひとつの象徴的な分類の体系であって、かならずしも科学的、医学的な根拠をもたないのだが、社会の構成員がそのイデオロギーを共有することによって、あたかも実体があるかのように機能するのである。
 じっさい、「麻薬」は悪いものだ、ああいうものには人間としてゼッタイに手を出すべきではない、と考えている人でも、ほとんどの場合、ヘロイン、覚醒剤、LSD、大麻といった薬物をきちんと区別し、それぞれがどのように心身に悪いのかということを知った上でそう思っているのではない。われわれの文化が持っている邪悪な「麻薬」という民俗分類をただ無批判に信仰しているにすぎない。
 しかもこうした薬物の恣意的な分類は、いったん文化として共有されると逆にひとつのリアリティとして機能しはじめる。反社会的で危険な「麻薬」とレッテルを貼られた薬物は、反社会的なライフスタイルを好む人々により危険な使い方をされることによって、その物質がもつ実際の生理作用以上に害をおよぼすことになる。そうして「麻薬」を常用していると「廃人」になる、という「神話」が逆に現実化してしまうのだ。使用が法律で禁止されれば、流通は地下に潜り、悪の組織と結びつく。「麻薬」は危険だというイデオロギーが、じっさいに「麻薬」を危険なものにしてしまうのだ。
 逆に、酒は数あるドラッグの中でも、もっとも危険な部類に属するのだが、にもかかわらず多くの日本人たちが酒に飲まれずうまくつきあっているのは、日本社会に、長い歴史の中でつちかわれた「飲み方」の文化があるからだ。いくら酔いたいからといっても、薬局で消毒用アルコールを買ってきて腕に注射したりはしない。そのほか、一人では飲まないとか、昼間は飲まないとか、他人につがれた杯しか飲まないとか、そういう制限をいろいろ加えて摂取のしすぎを防いでいる。日本人は忘年会だの、新年会だのといった口実をつくっては酒を飲んでいるが、逆にいえば、これは、日本人が、口実がなければ酒を飲んではいけない、大げさにいえば、酒は儀式の中でしか飲んではいけない〈聖なる〉飲料なのだという伝統文化を、あんがい根強く守っていることを示している。

神の肉

 いっぽう、〈聖なる〉薬物の文化を高度に発達させたのは、圧倒的にアメリカ大陸の先住民社会である。それ以外の地域でも、酒や大麻やカヴァが〈聖なる〉薬物として使われていたとはいえ、いずれも意識状態を変容させるにはそれほど強い作用は持たない。強力なサイケデリックスの儀礼的な使用は、ほとんどが中南米、とくに現在のメキシコ周辺と、ペルー周辺の先住民社会に集中している。メキシコの先住民族の間では、メスカリンを含むペヨトル(ペヨーテ)というサボテンや、シロシビンを含むテオナナカトル(神の肉)というキノコが儀礼的に使われてきたし、アンデスではメスカリンを含むサン・ペドロというサボテンや、アマゾン川上流からオリノコ川上流地帯では、DMTを含むアヤワスカとチャクルーナ、ヨポ、エペナなどの植物が使われてきた。その他、興奮剤を含むタバコやカカオ飲料ショコラートル(チョコレート)も中南米の先住民社会で儀礼の補助用に使われてきたものである。
 サイケデリックスを含む薬草は、ほとんどの場合狭い意味での(脱魂型の)シャーマニズムの儀礼の中で用いられる。脱魂型のシャーマンのうちでも、中南米以外の狩猟採集社会のシャーマンは薬草を補助的にしか使わないことが多いとはいえ、脱魂型のシャーマンの多くがなんらかの薬草を、意識を変容させるための補助に使っている。祭司はもちろん、同じシャーマンでも憑霊型のシャーマン(霊媒)は、酒を使うことはあってもサイケデリックスは使わない。酒の原料の多くが米、麦、トウモロコシなどの栽培植物であり、農耕儀礼の中で使われることが多いことをみると、酒はサイケデリックスよりも新しい時代に、クオリティは低いが大量生産の可能な代用品として発明された可能性が大きい。
 つまり、全人類が狩猟採集民だった太古の時代には、サイケデリックスの使用と結びついた脱魂型シャーマニズムが地球上で広く共有されていて、それが、農耕と牧畜の発明以降は、徐々に酒の使用と結びついた祭司・霊媒(憑霊型シャーマン)複合型の宗教文化に取って代わられてきたのだ。祭司宗教が社会の中心に位置する文化では、シャーマニズムは反体制的なサブカルチャーとして弾圧の対象となるが、これは、多くの社会がサイケデリックスを危険な薬物として禁止していることと並行関係にある。じっさい医学的にみて、サイケデリックスには身体毒性や身体依存性はほとんどない。そうではなく、酩酊によって思考が「異常」になり、「幻覚」が現れるという理由で禁止される。しかしこの理由はむしろ逆で、サイケデリックスはわれわれを文化的催眠状態から「覚醒」させる作用をもっている。「幻覚」とは、現実には存在しないものが存在するかのように思えてしまうことをいうのだが、サイケデリックスは「自我」や「国家」のような、本当は存在しないものを存在すると思っている意識状態から、われわれを覚醒させる。サイケデリックスこそ文字どおりの「覚醒剤」なのであり、だから国家によって禁止されるのだ。
 もっとも、中南米の先住民社会にはこのモデルは当てはまらない。中南米の先住民社会は文明を発達させるとともにむしろサイケデリックスの使用を強化し、脱魂型シャーマニズムを発展させてきたようにみえる。彼らの文化には憑霊型のシャーマニズムがまったくみられない。じっさい、サイケデリックスの儀礼的使用が集中しているメキシコ近辺とペルー近辺はまた、ヨーロッパ文明との接触以前に先住民文明が栄えた地域と重なる。彼らが作り上げた文明はスペイン人侵略者たちによって徹底的に破壊され、抹殺されてしまったので、当時の人々がどんな精神文化をもっていたのかを正確に知ることは難しくなってしまったが、それを遺跡や現存する先住民文化から推測することは、サイケデリックな意識状態と共存しうる文明のあり方を考える上で重要な示唆を与えてくれるに違いない。

近代的理性と興奮剤

 資本主義文明の「先進国」となったヨーロッパや日本には、新興のサブカルチャーを別にすれば、サイケデリックスを儀礼的に使用する伝統はない。石器時代には脱魂型のシャーマニズムが存在していたとしても、その伝統はかなり古い時代に失われてしまった。ヨーロッパや日本にもシャーマニズムの伝統はあるが、それはおもに女性たちによって担われる憑霊型シャーマニズムである。現代の日本の新宗教も、その発展型であるものが多い。憑霊型のシャーマニズムサイケデリックスの使用とは結びつきにくいが、作用の弱いサイケデリックスが使われていた可能性はある。中世のヨーロッパでは「魔女」たちがベラドンナやマンダラケなどを用いていたらしいし、古代の日本では大麻が呪術や神道の儀礼の中で使用されていた可能性がある。
 ヨーロッパ系の社会で、現在、合法、非合法を問わず使用されている向精神性植物(飲料)のうち、中世以前から使用されてきたのは酒とケシだけで、どちらも抑制剤である。いっぽう、興奮剤を含む茶はアジアから、コーヒー、コラはアフリカから、タバコ、コカ、カカオはアメリカ大陸から持ち込まれ、近代になってから普及した。日本でも中世以前はひたすら酒の文化であった。茶は八世紀ごろ中国より伝来したが、坐禅用ドラッグとして活用されたことがきっかけで一般に広く普及したのは中世以降だ(11)。またそれ以外の興奮剤はやはり近世以降にヨーロッパ経由で持ち込まれたもので、この点でもヨーロッパと並行した歴史をたどってきた。
 動因系を賦活し、自我意識の一貫性を強化する興奮剤は、勤勉を美徳とする資本主義の精神とも相性のいい薬物だ。ヨーロッパで花開いた近代的理性の背後には、植民地のプランテーションで大量生産されていた茶やコーヒーの薬理作用が存在していたのではないだろうか。この近代化のプロセスは、アメリカの歴史の中にもっともはっきりとみることができる。ピューリタンの国アメリカでは1920年に全州で酒が禁止される。それに取って代わるようにしてアメリカ人の国民的飲料になったのが「コカ・コーラ」だった。コカの葉に含まれるコカインとコラの実に含まれるカフェインの相乗効果によってアメリカ人たちは近代的理性を加速させ、二十世紀最強の近代帝国を築き上げた。
 コカインというと邪悪な<穢れた>ドラッグの代名詞のようだが、コカの葉自体はアンデスの人々が日常的に噛んでいる〈俗なる〉嗜好品である(13)。スーパーに行けば小奇麗に包装されたコカ茶のティーバックが並んでいる。アンデス文明では、インカの時代までには興奮剤であるコカが文化の中心的な地位を占めるようになっていた。同じ中南米先住民文明でも、アステカの、無数の骸骨の浮き彫りに取り囲まれた、きわめて彼岸的な神殿建築と、同じ時代のインカの、四角い石を神経質なまでに緻密に積み上げた、整然とした無機的な神殿建築を見比べてみると、アステカと同じ時代に、インカはすでに近代帝国への道を歩み始めていたことを思わせる。
 また、覚醒剤メタアンフェタミンは、もうひとつの近代帝国が形成されつつあった二〇世紀前半の日本で合成され、第二次大戦中には兵士たちによって、銃後の工場労働者たちによって、戦意発揚のための国家的ドラッグとして活用された。
 いっぽう、ペヨーテや「マジック・マッシュルーム」などのサイケデリック植物も、コカやコーラなどの興奮性の植物と同様に、大航海時代以来知られていたにもかかわらず、それが西洋文明の中で注目されるようになったのは、二十世紀も後半になってからのことである。象徴的な規則の複雑な体系をもつ中央集権的な国家権力とサイケデリックスは相性が悪いが、サイケデリックな意識状態はまた、時間的、空間的な自我意識の一貫性を原理とする近代的理性とも相性が悪いからだ。
 西洋文明が「ポストモダン」の時代に入り、近代的理性の行き詰まりが叫ばれるようになると、東洋の瞑想文化や世界各地の先住民文化の再評価が進む中で、彼岸的なリアリティを体験させてくれるサイケデリックスへの関心は急速に高まってきた。資源の確保と市場の拡張をめぐって戦いに明け暮れる近代帝国に対するカウンターカルチャーとして、サイケデリックスは「愛と平和」のドラッグとしての役割を果たすことになる。
 弱いサイケデリックスである大麻はすでに欧米の社会には広く浸透し、オランダやベルギーを皮切りに、各国は徐々に合法化の方向に向かいつつある。大麻に似た弱いサイケデリック作用を持つカヴァも、癒し系のリラクゼーションハーブとして、また次世代の精神安定剤候補として欧米や日本では1990年代から注目されるようになってきた。西洋世界に最初にカヴァを持ち帰ったのは18世紀イギリスの探検家キャプテン・クックだった。興奮剤カフェインを含む茶が、労働者階級における酒の代替物にしようとした政府の方針もあって、やがてイギリス人の国民的飲料になったのに対し、カヴァその後もずっとポピュラーな飲み物になることはなかった。うららかな午後のひとときをゆったりとくつろぐには、アフタヌーン・ティーよりもよりアフタヌーン・カヴァのほうが適していそうなものなのだが。
 ミクロネシアの文化も、日本の文化も、中南米先住民の文化も、西洋近代の文化も、それぞれが医学的な安全性とは無関係に、独自の民俗分類にもとづいて、独自のドラッグカルチャーをつくりあげてきた。しかもその分類体系は、時代とともに変化していく。西洋文明に関していえば、プレモダンのドラッグが抑制剤で、モダンのドラッグが興奮剤なら、ポストモダンのドラッグはサイケデリックスということになるのかもしれない。


蛭川立『彼岸の時間ー<意識>の人類学』春秋社、192-204頁を元に加筆修正

(2016/2559-06-16 作成 蛭川立