読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

蛭川研究室

蛭川研究室の「はてなブログ」版です

日本列島の精神文化史概論

縄文時代

日本列島の文化があるひとつのまとまりをなしてからの歴史を人類学的に振り返ると、大きく縄文以前と弥生以降に二分される。弥生以降の文化がもっぱら中国大陸の影響を強く受けてきたのに対し、縄文以前の文化は環太平洋地域の先住民文化とのつながりも濃く認められる。

氷河期の終了とともに地理的に隔離されたという要因が大きいのだろうが、日本文化は比較的早い時代からひとつのまとまりをなしてきた。日本語(琉球の諸言語をそれぞれ別言語と見なすときは日本・琉球語族となる)もアイヌ語も孤独語で、オーストロネシア系やアルタイ系との関係が推測されているが、はっきりしない。縄文文化の範囲は、興味深いことに、サンフランシスコ平和条約以降の日本国の領土とほぼ重なる。例外は先島と小笠原以南である。その後の日本文化は、アイヌ・日本本土・沖縄の三つに分かれるが、カムチャッカ半島から台湾までの島々の連なりの中で、もっとも距離的に離れているのは沖縄本島宮古島であり、この間の海が縄文文化と先島石器文化を隔てていた。(先史時代の日本列島の地図はこちら

縄文文化がひとつのピークを迎えるのは第四間氷期の、もっとも気温が高かった時代、縄文時代の中期、勝坂式土器に代表される時代の中部地方である。おそらく根菜類などの簡単な農耕が行われていたらしいが、気候の寒冷化にともなって急速に衰退した。この時期にはもちろん文字は使われていなかったため、縄文語の系統も、やはりオーストロネシア系やアルタイ系との関係が推測されているが、はっきりしない。親族構造に関しては、埋葬人骨の分析から、基本的に一夫一妻制の母方居住婚が行われていたらしい。土器のデザインにさまざまな精霊たちが顔を出し、土偶の形態が急速に発展しはじめた時代でもある。(極東の諸民族の社会構造の一覧表はこちら

その後、寒冷化にともなって衰退していった縄文文化の中心は、不思議なことにより北方に移動していき、晩期の北東北地方の、亀ヶ岡式土器に代表される亀ヶ岡文化でひとつの完成を見る。この寒冷な地域での生活を支えた主要な生業は漁撈であったと推測され、北太平洋沿岸地域の、農耕や牧畜を行わないのにもかかわらず、漁撈による蓄積を基盤として発展した首長制社会文化圏の一部であったと考えられる。亀ヶ岡文化の土器や土偶のデザインは、弥生式のデザインを先取りするように、中期のそれに比べてより薄く、線が細く、繊細になる。

弥生文化

一方の弥生文化は、朝鮮半島韓半島)にもっとも近い北九州から、稲作の北限である北東北まで、急速に広がったことが知られている。北海道ではその後も縄文文化(続縄文文化)が続き、これがアイヌ文化につながっているという説が有力である。(民族誌的)現在のアイヌ文化は、独特の重系出自集団を持ち、生業(サケなどの漁撈)や衣類の模様などには、亀ヶ岡文化との連続性が感じられる。

日本文化にかんするもっとも古い文献的記録である『魏志倭人伝』は、冒頭の、邪馬台国の位置を巡る記述に矛盾があり、北九州説と畿内説の間で論争が続いてきた。目下の最有力候補地は三輪山の西麓の巻向遺跡だが、文献だけからは確定できない。魏志倭人伝は、むしろ弥生時代から古墳時代にかけての日本人の「民族誌」として読むことができ、現在の日本人とあまり変わらないところが少なくないのが興味深い。この時期の日本には、北九州、出雲、吉備、大和、東海など、いくつかの小王国が存在していたらしいが、やがて大和(ヤマ(山)+ト(麓)の意味か?)を中心に連合王国を形成する。婚姻体系は一夫多妻制で、長幼・男女の区別は(当時の漢民族と比べて)はっきりせず、酒好きなのに治安が良く、長寿だということまで記されている。ジャワ語・バリ語などと同様に、日本語は相手との相対的な上下関係に敏感な待遇表現(敬語や卑罵語など)が発達しているが、これは必ずしも社会的な上下関係がはっきりした社会だからということではなく、階層によって使う言葉が違い、通じないという社会もあることを考えれば、むしろ社会的階層の異なる人々の間でも会話が可能であったとみることもできる。

f:id:ininsui:20170119021513p:plain
箸墓古墳奈良県桜井市)。皇族の墓だと指定されているので、発掘ができない。

女王卑弥呼(ヒ(日)+ミコ(貴い人に対する敬称。また「御子」と同時に「巫女」という漢字も当てられる)の意味か?)とその継承者台与についての記述から、父系出自集団が存在していたらしいにもかかわらず、アジアの他の社会に一般的に見られるような、王=祭司(=男性)というパターンとは異なり、王権を異性キョウダイが分担するというマツリゴトの形態が存在していたことがわかる。シャーマニズムについての具体的な記述は不明瞭であるが、このパターンは近世までの沖縄の、アジ(王:男性)・ノロ(祭司:女性)・ユタ(シャーマン:女性)と類似したものとみることができる。政治的権力・宗教的権威の分化を人類史的にみると、比較的平等な狩猟・採集社会では男性の脱魂型シャーマンが政治的なリーダーも兼ねていることが多いが、アジアの農耕・牧畜社会では、政治的権力を代表する王、宗教的権威を代表する祭司(僧侶、神官など)は男性で、民間信仰の担い手である憑霊型シャーマンは女性、というパターンが一般的であるのに対し、古代の日本では、王権は男女双方が担うことができ、祭司はもっぱら女性が独占する(そして、憑霊型シャーマンも主に女性である)という、女性の宗教的地位が高かった社会だということができる。

基層文化としてのアニミズムシャーマニズム

広義の沖縄(奄美+狭義の沖縄+先島=琉球)の人々は、形質人類学的には縄文・アイヌと近い特徴を持っているが、文化的にはむしろ弥生以降の古代日本文化と類似したところがみられる。(日本語の東京方言と琉球首里方言の分岐年代は西暦約六世紀と推定されている。)おそらくは漢民族文化の影響で、門中(ムンチュウ)という父系出自集団を持ち、その精神文化はアニミズムシャーマニズムが基本であり、祭司が女性であるところに特徴がある。

いっぽう、日本本土の社会は、父系的な傾向が優勢ながらも、基本的には双系で、また異母キョウダイ間や交差・平行を問わないイトコ婚が普通に行われてきた内婚的な社会であるといえる。これに対応して親族呼称も東南アジアやヨーロッパに広く見られるエスキモー型である(ある男性からみて、すべてのイトコは同じ呼称で呼ばれ、かつ姉妹とは区別される。ただし姉妹をあらわす「イモ」が配偶者を表す言葉でもあったことは変則的である。)男女が互いに歌を掛け合って始める通い婚は、雲南地方と、比較的近年までの日本(本土のヨバイや沖縄のモーアシビ(毛遊び?))にみられることから、古い時代の華南の文化が稲作(焼畑系)とともに周辺地域に伝播したものと考えられている。中国(むしろ華北)文化の影響を強く受けた貴族階層では、父系集団間でのイトコ婚による「女性の交換」も行われたが、日本本土にはあまり厳密な制度としては根付かなかった。

日本本土でも土着信仰の基本はアニミズムシャーマニズムであり、「タマ(シヒ)」「カミ」「モノ」などの超自然的存在が信仰されてきた。「タマ 」はもともと球形の岩石の意味で、そのようなものに宿る霊魂のことを指した。 「タマ(シヒ)」は人間だけではなく動物、植物、鉱物にも宿るので、アニミズム的な観念といえる。「モノ」は、物質的、霊的を問わず、ある実体をあらわし、出来事をあらわす「コト」と対比させられる。また「カム」または「カミ」はもともと自然の威力、畏れの対象、を指す言葉で、とくに非物質的ないし道徳的な意味合いを持たない。「カム」はアイヌ語の「カムイ」と同系という説もあるが、いずれにしても「上」をあらわす「カミ」とは系統の違う言葉らしい。日本人の精神文化はあまり体系だった宇宙論を持たず、自然崇拝が基本で、季節の推移や生殖力などに自然の摂理や威力を感じつづけてきたといえる。

日本人自身による最古の文献的記録は記紀(『古事記』『日本書紀』)であるが、それらが描く世界には「葦原の中つ国」の上に、神々の住む高天が原、地下に死者の行く黄泉の国、つまり、神々の世界、人間の世界、死霊の世界という三層構造がみとめられるが、それ以上複雑ではないし、それさえも中国文化の影響を受けている可能性もある。民間レベルでは、複数の異なる他界観が共存してきた。

天上他界・・・高天原
山中他界・・・華南の焼畑文化に由来?(→恐山、雲南モソ人
海上他界・・・ハハノクニ、トコヨ(沖縄ではニライカナイ
地下他界・・・黄泉の国、根の国

などである。

仏教の日本的受容

日本に仏教が伝来したのは六世紀で、その後、呪術的な実用性の高い密教(中期密教)(天台宗真言宗)が中国由来の陰陽道などと結びつきながら一種の国教となった。(平安時代遣唐使の廃止にともない、その後インドで発展した後期密教は輸入されなかった。)さらに、平安時代の終わりから浄土信仰が流行しはじめ、その中からいわゆる鎌倉仏教が出現し、仏教文化がローカライズされて大衆レベルにまで定着した。浄土宗、浄土真宗時宗浄土教系、日蓮宗法華経系だが、どちらも念仏(南無阿弥陀仏)や題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば救われるというシンプルなわかりやすさがあり、戒律も守って瞑想することによって悟りを得る(自力)というインド仏教的な考えよりも、人間の弱さを自覚して絶対者に自己を預けること(他力)によって極楽往生するという、むしろアフロアジア的一神教に近い発想がみられる。インドの宗教史の中では、これはバクティ運動に類似している。日本仏教のもうひとつの「自力」の流れとして、中国で老荘思想の影響を受けた仏教である禅宗臨済宗曹洞宗)があるが、これは中世の武士文化と結びついて発展し、茶道や日本庭園などの「侘び」の美学の泉源ともなった。

f:id:ininsui:20170119021715p:plain
浄土系の宗派では、人間の弱さの自覚を重視する。(京都市知恩院

いっぽうの土着信仰は(チベット仏教に対抗する形でポン教が整備されていったのと同じように)神道という体系にまとめ上げられていき、さらに近世以降には欧米による植民地化の圧力に抗し、ナショナリズムを強化するために(タイでは仏教が王権と結びつけられたのと同じように)王権と結びついた国家神道となり、これは第二次大戦期まで続いた。国家的宗教建築の歴史を振り返ると、三輪山は山自体が御神体で、麓の大神神社には本殿がないというアニミズムであり、奈良の大仏大日如来密教系)、鎌倉の大仏は阿弥陀如来(浄土系)で、明治時代には橿原神宮(奈良)や平安神宮(京都)が建設されたりと、政治と宗教がどのように結びついてきたかをみることができる。

しかし、民間レベルでは仏教神道はそれほど区別されてきたわけではなく、基本は祖霊崇拝が続いてきたといえる。インド仏教的な輪廻転生の観念は希薄で、人間は死ぬとホトケになり、それが年数を経て浄化されてカミとなるという形で、神仏習合の霊魂観が形成されてきた。現在、シャーマニズムが制度的に存在するのは沖縄(ユタ系)と北東北(イタコ系)だけであるが、中高年女性の互助的宗教活動は、日本本土では占いや新宗教の世界に受け継がれているのをみることができる。しかし新宗教は、どこか社会の異端と見なされているところがある。現在の日本は、世界の他の地域とは異なり、宗教文化が希薄である。「神様」のような超越的な観念が存在しなくても、「世間様」のような、人間どうしの相互監視のネットワークが、社会に倫理的な秩序をもたらしている。

文学的風土

インドやヨーロッパでは論理的、形而上的思考が発達したのに対し、日本の文化は中国と同様、もっと実際的で、超越的な問題に対する関心は薄かったといえる。さらに漢民族の思想が政治や医学などの実学を強く志向したのに対して、日本の文化は、より文学的な方向に洗練されてきた。ジェンダーの観点からすると、精神文化はより女性的であり、他の社会では文化の基礎となる文字がもっぱら男性の専有物であったのに対し、日本では平安時代には女性が文学の書き手として活躍している。日本文化の代名詞のように語られる「サムライ」、つまり武士の文化は、むしろ比較的後の時代に発展したものである。

仏教が変容しながら受容されたことについては先に述べたとおりだが、インド哲学に起源を持つ無常 anitya という論理的な概念は、日本では「あはれ」という情感へと変化してきた。(これは、サムライの文化では「あっぱれ」に変化する。)ただし、技術の方面では、縄文時代における土器の発明はさておき、中国やヨーロッパから進んだ技術を輸入しては、それをさらに繊細に改良していく方面にも長けていたといえる。(未完)


2007-01-05 作成 2017-01-18 更新 蛭川立