インド・ヨーロッパにおける心物問題の略史

西洋近代における心物問題

古来からのアニミズム的世界観は、もっぱら物と心の関係については素朴な「二元論 dualism 」であった。(日本語の「モノ」は霊的な実体概念も含む。)同じ世界の中に物質的実体と精神的実体が素朴に共存しており互いに相互作用することもできる。同様の素朴な発想は現代でも一般的である。脳を含む物質的世界と、主観的な経験世界が、とくに矛盾なく共存している。

西洋近代の哲学では、デカルトがこのような素朴な二元論を近代的に整備し直した。アニミズムでは、人間には人間の形をした魂が宿っていて、植物には植物の形をした魂が宿っているという程度の素朴な発想が支配的である。しかし、デカルトはそれを厳密に再考した。精神には、そもそも大きさも形もない。だから、物質が属するこの三次元的な空間の中に位置を占めることは、原理的に不可能なはずである。

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デカルト『情念論』(24)より[*1]。

しかし、精神と物質を完全に切り離してしまうと、知覚や随意運動が説明できない。そこでデカルトは、脳の内側にある松果腺 pineal glandという器官で両者が相互作用すると考えた。これを「相互作用説 interactionism」という。もちろん、これは多分に苦しまぎれの説明である。空間内で特定の位置を占めない精神的なものが特定の場所にある器官にだけは作用できるというのだから。現代では、脳生理学者のエックルスが、精神が脳の補足運動野に量子力学的な影響を与えるという相互作用説を唱えている。

心身二元論を厳密に徹底するなら脳と心は相互作用できない。そうではなく、脳と心は並行関係にあるにすぎないとするのが「並行説 parallelism」である。もっとも、こんどはそれでは何の説明にもなっていない、ともいえるのだが、並行説には相互作用説のような論理的な矛盾はない。

その後の近代科学の世界観においては、二元論から精神を取り去った物質一元論、「唯物論 materialism」が優勢になる。心脳問題の図式でいうなら、脳だけがあって心はない、ということになる。そうすれば、精神と物質はどこで相互作用をしているのか?といった奇妙な問題は論じる必要がなくなる。とはいえ、唯物論という立場からすれば主観的な体験すら存在しないことになってしまうのだが、それは我々の素朴な直感に反する。やはり自分には意識があって、自分の身体は自分で動かしているように思える。他人にも同じように意識があるように思える。

それでも徹底した唯物論は、意識だとか心だとか、そういう主観的な経験は一種の錯覚にすぎない、と主張する。これを「消去主義的唯物論 eliminative materialism 」という。しかし、「錯覚」と言い換えても、それもまた精神的経験の一種である。とにかく意識や心などまったく存在せず、自己も他者も「ゾンビ」のように自動的に動いていると考えることはできるが、そのように「考えている」主体が何であるかは説明できない。

そこで現在では「随伴現象説 epiphenomenalism」という、唯物論と二元論の折衷案がひろく一般的に受け入れられている。随伴現象説では、脳というハードウェアの働きとして心というソフトウエアが生み出されてくると考える。脳という物質の変化は心の内容に反映するが、心から脳への逆向きの作用は考えない。直感的には無理がないが、折衷的な二元論であって、厳密には論理的な説明になっていない。

唯心論への遡行

二元論はどうしても議論がややこしくなってしまいがちである。そこで、心や意識というものの存在を認めたうえで、しかも一元論ということになると、唯物論とは正反対の一元論として唯心論 spiritualism という、第三の解釈を考えることができる[*2][*3]。ようするに、心だけがあって物質はないという考え方も論理的には可能であり、むしろ論理的にはもっとも反証が難しい。我々が今、目の前に見ている世界は夢かもしれない。自分の心がつくりだしている幻覚かもしれない。そうではないということを証明することはできない。隣にいる人に「これは夢ですか?」と訊いてみて、「いや、これは夢ではない。現実だ」と言われたとしても、そう答えた人自体が自分がいま見ている夢の登場人物であるとすれば、世界の客観性はなにも保証されない。

この考え方は徹底すれば「独我論 solipsism」というものになってしまう。つまりこの世界は自分が見ている夢であって、他の人たちは私の夢の登場人物にすぎない、すべては私の心がつくっている、私の心だけが存在する、と煮詰まっていってしまう。独我論は論理的だが、議論する他者が存在しない以上、「論」としてさえ成り立たない、「毒牙」にかかってしまう。そのような結論をどう回避するか。たとえばライプニッツは「モナド論 monadology」という議論を展開した。物質世界は個人の見ている心像であるという点で唯心論的だが、複数の心の存在を認める。しかも、その複数の心は、同じ物質世界を見ていなければならない。しかし、なぜ別々の心が同じ物質世界の像を共有できるのか。その根拠は「予定調和 harmonie pretablie」という概念で説明される。

唯心論は近代科学の正反対にあるような議論だが、歴史を振り返ってみると、洋の東西を問わず、近代科学以前の世界観は、むしろ物質より精神のほうを基本的な実体と考える説が優勢だった。そこでは、個々人の心を超えた普遍的な精神原理が仮定されていたから、独我論という問題も存在しえなかった。つまり、個人を超えた唯一の普遍的な精神が「流出」して、個々人の心が分岐し、そこからさらに物質的な世界が展開するという哲学である。これは、ヨーロッパの新プラトン主義 neo platonism や、インドのヴェーダーンタ vēdānta 学派、サーンキヤ sāṃkhya 学派、仏教唯識思想などにみられる。

古代のギリシア

そもそも哲学と呼ばれる、「『考える』ということについて考える」という独特の思索の体系は、インド=ヨーロッパ文化圏、とりわけ古代のギリシアとインドで突出して発展した。ギリシアでもインドでも、相互の文化圏の交流も含め、唯心論的な立場から唯物論的な立場まで、さまざまな議論があり、さまざまな学説が展開されたが、古代においては、どちらかといえば唯心論的な議論が優勢であった。すくなくとも、とりわけインドではそうであった。これは、近代ヨーロッパ科学とは著しい対照をなしている。

古代のギリシアを代表する哲学は西暦紀元前6世紀ごろに、ピュタゴラスソクラテスなどを経て成立したプラトン主義である。その背景にはオルペウス教という、魂が輪廻転生を繰り返すという観念を持つ民間信仰があった。ごく単純に要約すれば、イデア界という、完全な観念からなる世界から地上に落ちてきた魂が肉体を持って暮らしているのが現在の人間である。肉体的な存在である人間は洞窟という牢獄につながれた囚人のような存在で、洞窟の外部から入ってくる光が落とす影のほうを物質という実在だと勘違いしている、と考える。

イデア idea は物質的ではないが、かといって個々人の精神が生み出したものではなく、その外部に実在する。物質でも精神でもなく、観念という第三の客観的な世界であるともいえる。イデアはさらに、真のイデア、善のイデア、美のイデアに三分類されるが、善や美について、人間的なものを離れた客観的な基準を考えない相対主義的な考えに慣れ親しんでいると、この考えを理解することは困難である。もっともわかりやすいのは、真のイデアとして数学の世界を考えることだろう。

幾何学で現れる、大きさのない点や太さのない線は、純粋な観念であって、決して紙の上に書き表すことはできない。紙の上に書かれた点や線には必ず大きさや太さがあり、それらは幾何学的な点や線の、不完全な「影」にすぎない。

数は、物質ではないが、かといって個々人の精神が考え出した、たんなる記号でもない。たとえば、新しい素数や方程式が「発見」された場合、それは「発明」されたとは言わず「発見」されたという。つまり、それらの数や式は誰かの精神によって「知覚」される以前から、その精神の外部に存在していたものであり、かつ誰が「発見」しても同じだっただろうという理由で、客観的な存在だとみなされる。

この場合、プラトン主義は唯心論 spiritualism とは区別して、観念論 idealism と呼んだほうがよいだろう。あるいは、心物二元論の延長線上に、物質・精神・観念の三つの実在が併存するとする、三世界論という立場を考えることもできる。

なお、プラトンの弟子のアリストテレスは、師であるプラトンと並んで、ヨーロッパの哲学の二大潮流の祖とされ、どちらかといえば近代の自然科学につながる流れに近いが、かといって唯物論を唱えたわけではない。しかし、アリストテレスは、プラトンのように、イデアが個物から独立に存在するとは考えなかった。それぞれの個物の中にイデア的なものが含まれているが、それをエイドス eidos (形相)と呼んで区別した。三角形のように見えるものはたくさんあっても、太さのない線からなる完全な三角形など、(それらの不完全な三角形たちから離れた場所に、)独立に存在するはずがない。ただ、たくさんの不完全な三角形のようなものが共通して理念形のようなものを内在していると考えることはできる。イデアとエイドスという概念の違いが、二人の立場の違いを象徴しているが、そのことはここではこれ以上触れない。f:id:ininsui:20151217031052j:plainラファエロアテナイの学堂』バチカンサン・ピエトロ大聖堂

いっぽう、ヨーロッパ世界に伝わったキリスト教思想の影響を受けながら、プラトン主義をより発展させた哲学として、プロティノスによって西暦3~6世紀に体系化された新プラトン主義がある。新プラトン主義によれば、世界の本質は「一者 to hen」と呼ばれる絶対的な精神的実在であり、そこから順に知性 nous、魂 psychē、そして物質が「流出 emanatio」することによって、この世界が構成されていると考える。より下位の存在はより上位の存在の「影」のようなものであり、自らの魂が「一者」へと回帰し合一すること(神秘的合一 ecstasis)によって自己は絶対性を回復するとする。

古代のインド

同様の哲学は古代インドにおいても主流であった。(古代インドの文化がギリシアの哲学に影響を与えたという可能性もある。)古代インドにおいては唯物論的な哲学は皮相的な快楽主義と同一視され、蔑視される一方(おそらくは先住のドラヴィダ系民族が持っていたとされる)輪廻転生の思想にもとづいた唯心論的な哲学が主流であり続けた。ひたすら議論好きであり続けたインドの哲人たちも、この輪廻という公理自体は捨てるということを好まなかった。

その中でも、もっとも正統的なのが、西暦5世紀ごろ大成されたとされるヴェーダーンタ vedānta 哲学である。普通の人間は自我(アートマン ātman)を物質的な身体と同一化しており、死とともに自我は身体を離れるが、ふたたび新しい身体に宿って無限の転生を繰り返すと考える。しかし実際には真の実在は「梵(ブラフマン brahman)」と呼ばれる宇宙的な意識であって、ほんらいアートマンブラフマンは同一であるのにもかかわらず、人は無知 avidyā のゆえにそのことに気づかない。しかし明知 vidyā を得、そのことを知ることによって、自我は永遠の輪廻 saṃsāra から解脱 mokśa する。この発想は新プラトン主義とよく似ているが、新プラトン主義においては神秘的な合一にいたるための具体的な身体技法が明示されていない。これに対して、ヴェーダーンタ哲学は、後にそれを実践するための方法としてハタ・ヨーガ hatha yoga と呼ばれる、具体的で体系的な身体技法によって裏付けられることになる。

ヴェーダーンタ哲学が中世に完成されたハタ・ヨーガの思想的背景になったのに対し、より古い形の古典ヨーガ rāja yoga はサーンキヤ sāṇkyha 哲学を思想的背景としていた。(サーンキヤとは、知識によって解脱するという意味であり、行為によって解脱することを意味するヨーガと対になっていたとするほうがより正しい。)サーンキヤ学派は二元論であり、一元論であるヴェーダーンタ学派を批判した。つまり、なぜ世界が唯一の完全なブラフマンであるのなら、なにゆえにこの「現実」世界はかくも不完全なのか、と問う。これに対してサーンキヤ哲学は、プルシャ puruśa (自我:純粋観照者)と、物質のおおもとであるプラクリティ prakṛti(根本原質)の二つの原理を立てる。プルシャとプラクリティは、しばしば踊りを鑑賞する王と、踊り子の関係に例えられる。プルシャがプラクリティに関心を持つことによって、プラクリティは新プラトン主義が説くように、より粗大な物質的存在へと展開していってしまう。そして、プルシャがプラクリティに対する関心を放棄することによって、プラクリティは展開の踊りを止め本来の姿に留まる。(図:立川武蔵『ヨーガの哲学』講談社、53頁より引用)

とりわけインドの哲学は論争に次ぐ論争の歴史であったともいえるが、このような批判に対して、ヴェーダーンタ哲学を改良したのがシャンカラ(西暦8世紀ごろ)である。シャンカラによれば、この現実世界とされるものは一種の幻 māyā であって、実在するものではなく、真の実在はブラフマンのみであるという説明で一元論を正当化した(不二一元論)。

一種の宗教として東アジアに広まった仏教もまたこうした古代インドの哲学論争の中から発生してきたひとつの学派ということもできる。初期仏教が古代インド哲学の他の学派と異なっていたのは、行きすぎた形而上的な論争を戒め、現実的な問題解決を重視した点にある。異説はあるが、ブッダ buddha(目覚めた人)とも呼ばれるシャカ(西暦紀元前6世紀ごろ)は、インド哲学がこだわり続けてきた、真の自己とは何か、死後繰り返される輪廻からいかにして解脱するかといった問いには答えようとしなかったという(無記 avyākata)。それよりも、目の前にある当面の問題を解決することが重要だと説いた。これは一種の実証主義 positivism、ないしは実用主義 pragmatism であるともいえる。そのことが、過剰な形而上的議論を好まない他民族に受容されやすかったのかもしれない。中国や日本の禅は、その意味では初期仏教と近い発想を持っている。またこの実証主義的傾向は、相対性理論量子力学と基本とする現代科学とも発想を同じくしている。


(2012/2555-05-06 作成 2016/2559-12-18 更新 蛭川立

*1:Wikipedia「実体二元論」

*2:この立場は「観念論 idealism」と呼ばれることもあるが、ここでは「観念論」という言葉を、物質と精神以外の、第三の実在である観念こそが真の実在であるという立場を示すために使う。

*3:「spritualism」は、19世紀以降、自然科学的世界観と霊魂の死後存続を両立させようとした思想の意味でも使われるが、日本語では、この場合は「スピリチュアリズム」と片仮名表記される。