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蛭川研究室

蛭川研究室の「はてなブログ」版です

現代物理学と心物問題

世界を見ているのは誰か

科学の基礎となる物理学は物質についての科学である。物質の運動法則がわかればそれでいいし、技術的な応用もそれで事足りる。物理学は心や意識などの精神的領域を扱う必要がなく、唯物論モデルだけで無矛盾に記述できるように思われる。個々人が抱いている意識的な経験は一種の錯覚だと考えればいい(消去主義的唯物論)。

しかし、それでもなお、物質世界を観測している、あるいは経験している主体は誰かという疑問は残る。物質を観測する主体が誰も存在しなかった場合、その物質的宇宙を記述するのは誰なのかという、非常に基本的な問題は残ってしまう。月は、誰も見ていなくても夜空に浮かんでいるのだろうか。誰もその音を聞く者がいない森の中で木が倒れたとき、木が倒れたという現象が実際に起こったことを誰に証明できるのだろうか。そんなことは問うても仕方がない形而上学であるとして議論しないことにするのが実証主義の立場である。

現代物理学の世界観

二十世紀に入って、物質科学の基礎をなす物理学に二つの大きな理論的展開があった。ひとつは相対性理論であり、もうひとつは量子力学である[*1]。結論を先取りすると、古典物理学では、誰が観測しても物質世界の挙動は客観的な法則に従う。だから、心や意識などについて考える必要がなかった。しかし、現代物理学では、観測者によって物質世界の挙動が異なることが明らかになった。誰が観測しても物質世界は同じ法則で動いているようにみえるとする原理(相対性原理)が成り立つようにするために、物理学は基本的な部分から再構成されなければならなかった。

相対性理論

19世紀の末には、世界のすべてが理論的には決定論的な運動方程式で記述可能であり、物理学はほぼ完成されたと考えられていた。電磁波を媒介する実体は知られていなかったが、音が空気の波であるように、電磁波もまた仮にエーテルと呼ばれる媒質を伝わる波だと考えれば、音波と同じように記述できる。

しかし、奇妙な実験結果がこの仮説を覆してしまう。前向きでも、後ろ向きでも、どんな速度で運動している物体から放出される(エーテルの波動であるとされていた)光(電磁波の一種)の速度は同じだということが明らかになる(光速度不変の原理)。後に古典物理学と呼ばれるようになる、それまでの物理学がその基礎としていた原理は、絶対時空の原理と相対性原理である。

もし、他に何もない無限の宇宙空間に一個だけ粒子があった場合、それが止まっているのか動いているのか、動いているとすればどれほどの速度で動いているのかということは、その背景に升目のように広がる絶対時空を基準にすれば、区別することができる。しかし、その絶対時空は直観的には自明な概念だが、それは物質ではないので、観測することができない。絶対時空が観測できないのであれば、その粒子が止まっているか、どれぐらいの速度で運動しているのかは、観測によって区別して知ることはできない。

また、もし、宇宙空間に二個の粒子があって、片方から見た場合に他方が(等速度)運動しているように見えたとしても、逆の視点も成り立つので、絶対時空が観測不能である以上、どちらが止まっていて、どちらが動いているのかという議論もまた実験的に確かめることはできない。実験的に確かめられない以上、どちらが止まっていて、どちらが動いているのかといった議論はできない。つまり、どちらも対等に成り立つ。これが(特殊)相対性原理である。加速度がかかっている場合も含めた、すべての運動を含めた場合、これは一般相対性原理と呼ばれる。

絶対時空の原理と相対性原理と、そして新しく発見された光速度不変(の原理)の三つは同時に成り立たない。どれか一つを捨てなければならない。理論と実験結果が食い違った場合には、理論のほうを変更しなければならない。どんなに奇妙であったとしても、光速度不変は実験的に確かめられているから捨てるわけにはいかない。(特殊)相対性原理は無矛盾な議論なので捨てられない。したがって、もっとも自明であったが、逆に実験や観測によって確かめられない絶対時空の原理が捨てられることになった。これが(特殊)相対性理論の基礎である。

相対性理論によれば、時間と空間のありようは観測者の位置と速度に依存する。二個の粒子を二人の観測者として考えてみればわかることだが、どの観測者から見たかによって、物質の運動は異なったものになってしまう。つまり、観測者という主体なしには、物理的世界が記述できない。

たとえば、電車に乗っていると、車窓の景色が流れていくように見えるが、外側にいる人には、電車が走っているようにみえる。常識的には、地面は止まっていて、動いているのは電車のほうではないかと思われるが、これは身の回りの出来事の「多数決」にすぎない。実際には地球は24時間で1回転している(これは、時速1700kmである!)し、地球は太陽の周りを回っていて、太陽は銀河系の中心の周りを回っていて、銀河系も宇宙の中を高速度で動いている。

時間の相対性についても、具体的に、たとえば光ではなく音の場合を考えてみれば、このことは直感的に理解できる。夕方の5時に市内に立っている多数の広報塔からいっせいにチャイムが鳴るとする。遠くの音は遅れて届くので、エコーがかかったように聞こえる。どの音が本当の5時なのだろうか。相対性原理は、このような問いは無意味だとする。すべての広報塔の音がすべて5時を報せているのである。市内のどこにいても、飛行機に乗っていても(音速を最高制限速度とする仮想世界では超音速ジェット機というものはありえない!)つまり、聞く人のいる場所や動いている速度によって「5時」はそれぞれ異なる。絶対時間を論じることには意味がない。

量子力学

相対性理論と並ぶ、二十世紀の物理学上の大きな変革は、量子力学である。物質を構成する原子や、さらにそれを構成する素粒子のようなミクロな世界の研究が進むにつれて、あらゆる物質は、観測者によって観測(測定)されるまで、物質波、いわば確率の濃淡からなる「雲」のような存在でしかなく、しかもその広がりは、きわめて低い確率ではあるが、無限大であるということが明らかになった。ただし、人間や天体のような大きなスケールでは、波として広がっている確率が非常に小さいので、それまでの物理学では気づかれなかったというだけのことである。

しかもこの確率の波動(物質波)は、観測者によって特定の場所で測定された瞬間に、粒子性を持った物質へと「収縮(崩壊) collapse」する(ようにみえる)。どんなに大きな物質でも、このような奇妙な性質を持っているが、その効果は無視できるほど小さいので、事実上、まったく問題にならない。しかし、素粒子レベルの大きさにまでなると、その奇妙なふるまいは無視できなくなってくる。

これを「観測問題(測定の問題)」という。二十世紀になり、素粒子レベルでのミクロの世界の解明が進むにつれ、観測される以前の物質の状態は不確定であり、観測した瞬間に確定する(ように見える)という、常識的な解釈が難しい現象が知られるようになった。おおよその概略は以下のようなことである。

机の上に箱があり、中に一枚のコインを入れて蓋を閉める。箱をよく振ってからまた机の上に置き、蓋を開けて中を見る。コインが表を向いている確率は二分の一、裏を向いている確率も二分の一である。それは、箱を机に置き直した時点ですでに決まっていたことで、開けたときにそれが見える、というのが至極常識的な解釈である。しかし、素粒子レベルでの物質の振る舞いを観測して得られたデータは、そういう常識的な解釈を許さない。箱を開ける直前までは、コインが表か裏かは決まっておらず、両方が二分の一の確率で「重ね合わさった」状態にあるのだという。「表を向いている」のでもなく、「裏を向いている」のでもなく、「表を向いていて、かつ裏を向いている」、あるいは「表を向いているのでもなく、かつ裏を向いているのでもない」とでもしか言いようのない、不可思議な状態なのだ。そして、箱を開けて観測した瞬間に、この確率の波、波動関数が表か裏かのどちらかに「収束(崩壊) collapse」する。このような解釈を「コペンハーゲン解釈」という。箱を開ける前には誰も見ていないのだから、そんなことを議論しても仕方がないとも言える。「夜空に浮かぶ月は見ていないときにも存在するのか」と問うのと同じようなものだ。

確率の波が観測と同時に粒子へと収束(崩壊)するなどというのは意味不明である、という立場から出てきたのが「多世界解釈」である。実は、最初から「観測者が箱を開けたらコインが表を向いていた」世界と「観測者が箱を開けたらコインが裏を向いていた」世界が並行して存在していて、観測した瞬間に二つの世界の間で相互作用が不可能になるだけなのだ、という解釈である。観測が行われる前に、観測が行われる数と同じだけ、つまりは事実上無限の並行世界があるというのも途方もない考えだが、たしかに多世界解釈をとれば波動関数の崩壊という解釈は回避できる。

多世界解釈とは正反対ともいえる解釈が「量子モナド論」である。1992年、当時ポーランドコペルニクス大学に在籍していたが「Quantum Monadology(量子モナド論)」という論文を発表した。観測者という特権的な立場を認めない多世界解釈唯物論的であるのに対し、量子モナド論は唯心論的だと対比できる。敢えて単純化すれば、物質的な現象と見えているものは、すべては観測者の心の中で起こっている、という解釈である。意識が物質世界を「夢見て」いるということなのだ。そう仮定すると、そもそも観測という概念自体が意味をなさなくなる。しかし、観測者が複数存在するとすると、並行世界とは別の意味で、主観的な世界が無数に存在することになってしまう。中込はライプニッツの予定調和という概念を援用してこの問題を解決する。中込は量子モナド論を日本語で一般向けに解説した『唯心論物理学の誕生』(中込照明、海鳴社)の中で、その世界観はインドの唯識思想とも関係があることを示唆している。

唯心論的物理学とはなんとも異端の香りがする解釈だが、いずれにしても観測問題の解釈はすべて「解釈」にすぎない。観測したときにコインが表なのか裏なのか、それは50%と確率論的に予測できることは事実なのだから、それ以上の解釈の必要はない、という実証主義的な立場もある。実は中込氏自身も案外に堅実な実証主義者でもあり、とある学会でお目にかかったときには、自分の量子モナド論は理論的には無矛盾だが、実験によって検証可能な新しい現象を何も予測できないのだから他の解釈と変わるところはない、と些か謙遜されていた。

ミクロPK実験

しかし、もし逆に、観測者の意識のありようで事象の確率が変わることを実験的に示せれば、それぞれの「解釈」は、実験による反証が可能な「仮説」となる。コインの入った箱を振りながら、観測者が「表を向け」と念じて、表を向く確率が上がれば、量子モナド論のような、観測者を主体とする仮説のほうが実験的に支持されるだろう。これは「ミクロPK(微小念力)」という作業仮説で、それを確かめるための実験が1960年代から行われている。放射性元素の崩壊やトンネル電流といった量子力学的な確率過程に「念」を込める実験が多数行われ、すべてを集計すると50.02%というわずかな偏りが認められるという。しかし、これに対しては、実験に不備があるとか、失敗した実験結果が公表されないという偏りの可能性も指摘されている。現在も実験装置は小型化されて研究は続けられているが、はっきりした結論は得られていない。そもそも、この実験は超心理学 parapsychology の分野で行われており、物理学の専門家はこうした実験があること自体をほとんど知らない。知っていたとしても、巷に流布する「強くイメージすれば願望は実現する」といった類いのいかがわしい言説に埋もれてしまって、考慮に値しないものだと見なされているのが実情であろう。

量子力学の奇妙さを敢えて乱暴に単純化するなら、どんなことでも「きわめて」小さい確率でなら起こりうる、という主張である。観測される前の電子の確率波は全宇宙に広がっており、したがって全宇宙のどこで観測される可能性も「きわめて」小さい確率でなら、ありうる。しかし、どこで観測されるかは確率論的にしか予測できないのだとしたら、観測者の立場は受動的なものでしかありえない。しかし、観測者が、この場所で観測されてほしいと「念じる」ことで、観測される場所を偏らせることができたとすると、世界はもはや唯物論的なモデルでは説明できなくなる。むしろ「世界は夢である」とみなす、唯心論的な世界モデルのほうが整合性が高くなってしまうのである。

しかしミクロPK実験は、たとえ否定的な結果に終わったとしても、重要な問題提起をしている。この実験で本当に偏りが検出されれば、先に述べたように観測問題は単なる解釈の問題ではなくなる。逆に、ミクロPK実験で偏りが検出されないことを確認することにも積極的な意味がある。そのことによって観測問題は解釈の問題であり、実証主義的には議論する必要がないことが確認できるからである。

実証主義

このように、現代物理学では、時空や物質が実体として存在するのかという、物質主義的世界観が問い直されている。しかしそれは単純に精神優位の唯心論への回帰ではない。むしろ、現在の科学の主流は、こうした形而上学的な問いには立ち入らない、いわば「どうでもいい」ことについては考えない。観測されたものが(確率論的ではあっても)理論と一致し、技術的な応用も可能であれば、それでよしとする。宗教的世界観の中では、仏教がこれに似た実証主義的な立場をとっている。


(2012-07-08 作成 2017-01-17 更新 蛭川立

*1:両者を併せて現代物理学、それ以前の物理学を、古典力学古典物理学という。相対性理論古典力学に含める場合もあるが、ここでは相対性理論は現代物理学に含める。