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蛭川研究室

蛭川研究室の「はてなブログ」版です

「利己的な遺伝子」論から見た個体性

「良い」ことと、気持ち「良い」こと

われわれはふだんの生活の中でごくふつうに「良い」とか「悪い」とかいう言葉を使うが、その意味をよく考えて使っているわけではない。

今日は「良い」天気だ、とか、この曲はなかなか「良い」というときの「良い」は、ほとんど、気持ち「良い」、つまり、「快」とおなじ意味だ。ぎゃくに、天気が「悪い」といえば、それは不快な天気だということだ。これは、「晴れ」とか「雨」とかいった、天気それ自体の客観的な性質よりは、むしろわれわれの主観的印象をのべているといえる。あまり「良い」天気が続いても、農作物の生育には「悪い」影響をおよぼす。じめじめしたのが好きなカタツムリなら、雨が降ったら天気が「良い」、晴れたら天気が「悪い」と思うかもしれない。

これはものごとの良し悪しのことだが、それでは人間の良し悪しの場合はどうだろうか。あの人は「良い」ひとだとか、あいつは「悪い」やつだとかいう言葉は、なにを意味しているだろうか。どういう人が「良い」人なのだろうか。たとえば、親切な人は「良い」人だとされる。しかし、泥棒は「悪い」人だとされる。この場合でも、ものごとの場合と同じようにかんがえることができるかもしれない。つまり「良い」人は、私に親切にしてくれたりして、私を気持ち「良く」させてくれるが、「悪い」人は、私の持ち物を盗んだりして、私を気持ち「悪く」させる。

ところが、これが他人のことではなく、私自身のこととなると話はややこしくなる。謙遜を美徳とする日本人は「私は良い人です」とはあまり言わないが、「私が悪かった」とか、「私は悪くない」とかいうのはよく耳にする。これはどういう意味だろうか。「私が悪かった」というのは、「私は気持ち悪かった」という意味だろうか。そうではない。どうやら、「私が悪かった」とは、「私の行為によってあなたを気持ち悪くさせてしまった」というような意味なのだ。また、他人のことなど気にせずに、自分が気持ち「良く」なることばかりを追求している人は、「良い」人だとは見なされないし、自分でも自分のことを「良い」人だとは思わないだろう。

ようするにこういうことだろう。二人の人間がかかわる場合には、行為するがわ、されるがわのどちらが「私」であっても、行為の受け手を気持ち「良く」させれば「良い」ことで、行為されるがわを気持ち「悪く」させれば「悪い」ことだとされるのだ。これで、世間でいわれているものごとの良し悪しの基準をだいたい説明できそうだ。

二者関係の四つのパターン

とりあえず、この暫定的な定義を使って、二つの主体の関係を整理してみよう。

甲さんが乙さんを気持ち悪くさせ、自分は気持ち良くなったとする。これは、利己行動である。行為の受け手である乙さんが気持ち悪くなったから、これは「悪い」こととされるだろう。

逆に、甲さんが乙さんを気持ちよくさせ、自分は気持ち悪くなった場合、これは利他行動である。乙さんが気持ちよくなったから、これは「良い」こととされるだろう。しかし、なにも自己犠牲的な行動をとらなくても、他者を気持ち良くさせることはできる。甲さんが乙さんを気持ち良くさせ、自分も気持ち良くなったならば、これは互恵的利他行動と呼ばれる。これもやはり「良い」こととなるだろう。

食べものの取り合いとか、縄張りの奪い合いとか、そういう具体的な資源をめぐる客観的な競争では、一方が得をすれば他方が必ず損をする。これを、ゼロサムゲームという。ところが快とか不快とかいう主観的な感覚では、こういう単純な引き算は成り立たない。一方が得をして、かつ他方も得をして、合計すると快楽の総和が増えてしまうということが可能なのだ。これが主観的な損得勘定のおもしろいところだ。そして、逆もありうる。甲さんが乙さんを気持ち悪くさせ、かつ自分も気持ち悪くなってしまうという可能性さえある。われわれは、意地を張って自己犠牲的な意地悪をすることもある。これは定義上「悪い」こととされるだろう。

チンパンジーの「不倫」、人間の「不倫」

チンパンジーは複数のオスと複数のメスからなる群れをつくる。群れをつくる霊長類のおおくが一夫一妻的、あるいは一夫多妻的な群れをつくるのだが、この場合、オスは他のオスを排除して、メスを独占することができる。いっぽう、チンパンジーの場合は、メスはそのつど複数のオスの中から交尾の相手をえらぶことができる。オスの側からすれば、メスをひとりじめすることができない。順位が高いオスは、順位が低いオスが交尾するのをじゃましたりして、あるていどまではメスを独占できるのだが、さりとて順位の低いオスが交尾するのを完全に食い止めることはできない。

順位の低いオスは、じゃまされないように隠れて交尾しようとすることがある。人間は、特別なことがないかぎり人前では交尾しないが、チンパンジーの場合は、ほかの個体のいるところで交尾するほうがふつうのことだ。しかし、順位の低いオスたちは、しばしば、お気に入りのメスと連れだって群れを離れ、ほかの仲間に見つからないようにしてたっぷり交尾を重ねることがある。メスたちにとってみれば、このほうが、オス社会の順位とは関係なく好きなオスが選べるというメリットがある。かくして、チンパンジー社会で誕生する子どもの約半数が、このような「かけおち」関係から産まれると推測されている。

人間の社会では、お気に入りの男とたっぷり交尾を重ねるほうがふつうのことで、複数の男と関係するような女は「悪い」女とされる。もし、同時に複数の男と交尾したいなら、隠れてこそこそやらなければならない。しかし、チンパンジーの社会では、この「倫理」が逆転しているようにみえる。メスは複数のオスと交尾するのがふつうで、お気に入りのオスとだけ交尾を重ねようとするなら、隠れてこそこそやらないといけない。特定の相手だけをえこひいきしてはいけないのだ。このような倫理も論理的には成り立つ。

じっさい、人間の場合でも、このような倫理で社会を運営しようとするユートピア共同体がつくられることがある。たとえば、十九世紀のアメリカにつくられたオナイダ共同体は、このようなユートピアの実験として有名だ。このユートピア共同体では、ふつうの人間社会の考え方とは反対に、不特定多数の相手との性関係が「良い」こととされ、特定の男女の親密な関係は利己的で「悪い」ことであると考えられた。

花子さんの密通

いったい、どちらの理屈が「正しい」のだろうか?人間型の規範でチンパンジー型の行為をみれば、不実な裏切り者とみえるし、チンパンジー型の規範で人間型の行為をみれば、排他的な利己主義者とみえる。

かりに、利他行動、つまり行為の受け手が快感を感じるような行為が「良い」行為だとしてみよう。太郎さんの妻、花子さんが、第三者である一郎さんと同意の上で交尾したとする。花子さんの行為は行為の受け手である一郎さんに快感を与えるだろう。だから、これは利他行動であり、「良い」行為だとかんがえることができる。オナイダやチンパンジーのやりかたはこの論理にしたがっている。しかし多くの人間社会はそうは考えない。花子さんの行為は、間接的にではあっても夫である太郎さんに嫉妬心などの不快感を与えるかもしれない。もしそうなら花子さんの行為は太郎さんに対する利己行動であって、「悪い」ことになる。

花子さんの行為は、一郎さんには快感を与えるが、太郎さんには不快感を与えるかもしれない。このように、行為によって影響される対象が複数で、かつ受ける影響が反対である場合、利他行動は「良い」のだ、というだけの単純な基準では矛盾が生じ、その良し悪しは決定不能になる。この場合、それでも「不倫」は「悪い」のだ、というためには、夫婦という枠組みを特別なものと見なし、それ以外の人間との関係を二の次とみなすような前提が必要になる。

ふだんの生活の中で、この「利他行動=良い」、という危うい図式が破綻せずになんとか機能しているのは、たとえば「夫婦」とか、「人間」とか、そういう枠組みを自明のこととして受け入れているからにすぎない。

山でイノシシをしとめてその肉を持ち帰り、村の仲間みんなに分けてあげることは、利他的であって、たいへん「良い」ことのように思える。しかし、殺生をして肉を食べてもいいとされるのは、人間だけが特別で、それ以外の連中は自分たちの利益のために殺してもいいのだ、という枠組みを受け入れるかぎりにおいて、である。もし、殺されたイノシシさんのことまで考えれば、この狩人氏の殺りく行為は、もはや良いことなのか悪いことなのか決定できなくなる。

社会契約という発想

人間はほんらい利己的なもので、人間の群れを無秩序状態にほおっておくと、個々人は利己的な利益の追求ばかりに専念し、互いの利害の対立からひっきりなしに殺し合いが起こり、世の中はつねに戦争状態になってしまうだろう、一七世紀イギリスの社会思想家トマス・ホッブズはそう考えた。そんな社会はあまりにも住みにくい。何をやっても自由かもしれないけれど、いつ、だれに殺されるかわからない。そこで人々は互いに契約を結ぶ。私はあなたを殺さないから、そのかわりにあなたは私を殺してはいけないということにしよう。邪魔者を消す自由を放棄するかわりに、身の安全を保障しあおうというわけだ。これが社会契約という考え方である。

この場合、殺人が「悪い」とされるのは、それがただ利己的な行為だからというよりは、契約違反だからだ。ひょっとしたら死ぬということはすごく気持ちいいことなのかもしれない。この世からおさらばしなければならないのはちょっと残念ではあるけれども、じつはもっと楽しい極楽に行けるのかもしれない。だが、かりにそうだとしても、契約はあくまでも契約だ。契約を破ったものに対しては、報復が正当化される。あなたがわれわれを殺すなら、われわれはあなたを殺す。死刑はこのような理屈にもとづいて実行される。死刑は殺人であるにもかかわらず、契約違反にたいする報復として正当化されている。

もし婚姻という契約に婚外性交の禁止を含めるなら、「不倫」は、互いに婚外性交をおこなわないという契約に対する違反なのであって、契約とは無関係な第三者が気持ち「良かった」のかどうかは、このさい問題ではなくなる。そもそも人間以外の動物たちとは契約など結びようがないのだから、イノシシを殺して食うことは人間を殺して食うこととは同列には論じられなくなる。この場合、問題は利他性ではなく契約だということになる。

力と裏切り

しかしこのようなやりかたでは、裏切り者を完全に防止することができない。そもそも、ある個人にとって一番得なやりかたは、みんなを利他的にふるまわせておきながら、自分だけは利己的にふるまうことである。殺人は悪であるとしておきながら、自分の利益のためには殺人をおこない、かつ報復をまぬがれるようにすればいい。えらく勝手なやり方だが、「権力」を持った人は、しばしばそのようにふるまう(ことができる)。利他主義が良いことなのだという風潮は、それを流布させておいて自分(たち)だけが例外としてふるまって得をしようとしている一部の人々の陰謀(?)だと考えたくもなる。

男は複数の女とセックスをしてもいいが、女は複数の男とやってはいけない、というダブルスタンダードの背景には、そうすることで繁殖上の利益が増大するかどうかという、生物学的な性差が存在するのだろう。しかしこれは、社会的により強い「権力」をもっている男たちが、女たちに利他的であることを強制するいっぽう、自分たちは利己的にふるまっている、とみることもできる。

また、一夫多妻が許容されている社会でも、じっさいには「権力」を持った少数の男だけに複数の妻を持つことが許されているばあいがほとんどだ。強い立場にある男たちは、弱い立場にある男たちに「複数の女を独占してはいけない」という利他的なルールを押しつけておきながら、自分たちはその規則の例外としてふるまう。

道徳上の奴隷一揆

こういうずるいやり方にたいして、正直者の弱者は裏切り者の強者を告発することができる。私は気持ちが「悪い」。私を気持ち悪くさせているのはあなただ。ゆえにあなたは「悪い」。ここまでは単なる裏切りの告発なのだが、告発しても強者は弱者のいうことなど無視するかもしれない。でも、弱者には強者に報復攻撃を加えてやっつけるだけの力がない。そこでルールがひそかに変更される。逆転がおこなわれ、利他行動が良いことであるという理念がさかさまに利用される。あなたは私を犠牲にして気持ち「良く」なっている。もっと負け惜しみっぽくいえば、私は自分を犠牲にしてあなたを気持ち「良く」させてやっているんだぞ。ゆえに私は「良い」のだ、ということになる。

こうして、(相手がどう行為するのであれ、つねに、)「私は気持ちが『悪い』、ゆえに私は『良い』」という奇妙な論理が導かれることになる。私は気持ちが「良い」から天気が「良い」のだという、この章の最初でみた素直な図式がいつのまにか逆転してしまっている。しかも、この、私は不幸である、ゆえに私は「良い」という結論部分だけが一人歩きすると、奇妙なことになる。じっさいにだれかから具体的に被害を受けたかどうかにはかかわらず、自分が不幸なのはこの世の中のだれか「悪い」人(たち)のせいであって、自分は被害者であって、ゆえに私は「良い」のだという変てこな論理が流布するようになる。病気、貧困、家庭の不和など、人は不幸になればなるほど「良い」人になってしまう。こういう発想は、自力で不幸を解決できないひとたちの一時的ななぐさめにはなるけれども、なんだか問題がすりかえられているような気がする。

こんなゴマカシをやっててもしょうがないぞ、こんなゴマカシを巷に流布させたのは誰だ、それがキリスト教道徳だ、と告発したのはニーチェだった。キリスト教のせいかどうかはともかくとしても、この「奴隷道徳」的逆転は近代世界においてすっかり一般的な戦略になってしまっている。独裁者に反対する活動家が、「死んでやる」といって焼身自殺したとすれば、それは独裁者氏にとってはありがたいことのはずである。反対者が自分で消えてくれたのだから。しかしそうはいかない。その事件がきっかけで非難の世論が高まり、やがて彼の政権は倒されてしまうかもしれないのだ。

囚人のジレンマ

契約という観念を持った人間社会以前の、動物たちの群れは無秩序な利己的闘争状態なのかというと、じつはそうではない。ケダモノの世界にも利他行動はある。その第一は、見返りを期待した利他行動である。今、自分が犠牲になって相手に利他行動を行っても、いずれはお返しで利他行動し返してもらえると見込めば、それは利己的な動物にとっても理にかなった行為ではないかといえる。

囚人のジレンマ」というゲームモデルがある。共同の罪で捕らえられた二人の囚人が、一人ずつ別々の部屋に連れていかれ、取り調べをうける。二人が二人とも黙秘し通せば、いずれはそのまま釈放されるかもしれない。しかし、自分が黙っている間にもう片方が自白してしまったら、こちらのほうはえらく重罪になる。先に自白してしまえば、相棒は重罪になるけれども、自分はすぐに釈放してもらえる、ということになっている。もし二人が沈黙し通せるのなら、黙っていた方がお互いのためにはいいかもしれない。けれども、相手が裏切りそうなら、裏切られる前に先に自白してしまったが勝ちだ。どうすればいいのだろうか。これがこのゲームのジレンマである。

じつは、相手がどう出るのかにはかかわらず、こちらが出す最適な手は決まっている。もし相手が裏切るのなら、自分も裏切らなければ大損をする。いっぽう、相手が協力を選択した場合も、そういう状況で裏切れば利得はさらに大きくなる。かくて、相手の出方がどうであれ、つねに裏切るのが得だということになる。

でも、これは一回限りの「囚人のジレンマ」の場合だ。一回限りでなかった場合にはこのゲームはどうなるだろうか。たとえば、捕まった二人の囚人は、以前にも同じように共犯で捕まったことがあるとすると、あるいは、二人の同業関係が今後も続くかもしれない、とすると、話はややこしくなる。前に捕まったときは、相棒が先に裏切って自白してしまったために、自分は大変な目にあった、というのなら、今回も相棒は裏切る可能性が高いから、できるだけ早くこっちが裏切ってしまったほうがいいかもしれない。(まあ、裏切られた相手とはもう二度とコンビを組もうとも思わないだろうが。)しかし、以前に捕まったときにお互いがごまかしつづけて釈放された経歴を持つコンビなら、ジレンマは深まる。今回も相棒を信用して我慢していたほうがいいのか、それともやはり先に自白してしまったほうがいいのだろうか。でも、もし自分が先に自白して釈放されてしまったら、相棒とはもう二度とコンビを組めなくなってしまうかもしれないし、報復があるかもしれない。それも怖い。

囚人のジレンマ的状況が何回も続くとすると、可能な戦略はいろいろ考えられるようになる。つねに裏切るという単純な戦略とつねに協力するという単純な戦略との間に、たとえば一回おきに協力したり裏切ったりするとか、相手が協力すれば協力するし、相手が裏切れば裏切るといった、いろんな戦略が考えられる。しかも、そのどの戦略がどの戦略に対して有効かどうか、どの戦略と対戦してもいつも勝てるような戦略があるのかどうかといったことを、数学的に示すのは難しい。

「目には目を」

1979年、アメリカの政治学者ロバート・アクセルロッドは、コンピューターシミュレーションで、繰り返し囚人のジレンマの、いろいろな戦略どうしのリーグ戦を実施した。二〇〇回のくり返しゲームという条件下で、参加した十五種類の戦略のうちで、優勝したのは「目には目を(tit for tat)」というものだった。「目には目を」は単純な戦略だ。まず、第一回の対戦では協力する。その後は、前回相手が協力したなら今回も協力するし、相手が裏切ったなら今回は仕返しとして裏切り返す、というものだ。

このリーグ戦では、自分のほうからは決して裏切らないという、どちらかといえば協調志向の戦略が、全体的にいい成績をおさめた。囚人のジレンマゲームは、一回だけならとにかく裏切ったもの勝ちなのだが、くり返しになる場合は、まずは協力という手を選んだほうがいいらしい。こうしたシミュレーションの結果は、群れの中でそれぞれの個体が当面、自分の利益のためだけに行動していても、個体間でくりかえしのつきあいがあるかぎり、けっきょくは協力関係というものが自発的に広まっていくという可能性を示唆している。

アクセルロッドはその後、分析結果を公表し、参加戦略を六二戦略に増やしてふたたびリーグ戦を行ったが、優勝したのはやはり「目には目を」だった。

利己的な遺伝子

しかし、ケダモノたちは、見返りを期待しないで利他行動を行うこともある。親が子を献身的に世話するのがその典型的な例だ。このような行動は二個体間での遺伝子の共有によって説明される。子は自分の遺伝子のコピーを受け継いでいる。だから、自分の利益になることばかりして子どものことをかえりみないほど「利己的」な行動をコードする遺伝子は後世まで受け継がれることがない。たとえば、食べ物が足りないという状況で、親が自分の食べるぶんを子に与えて飢え死にしたとしても、それで子が生き残れば、遺伝子は生き延びたことになる。けれども、親が子の食べる分まで横取りして食べてしまい、子が飢え死にしたなら、たとえ自分が生き延びても、またもう一度子どもを作り直さないかぎり、後世に遺伝子を残すことはできない。

遺伝子が「利己的」に自分のコピーを再生産することしか「考えて」いないがゆえに、それにあやつられている生物は、個体レベルではときには利己的に、ときには利他的に振る舞わざるを得ない。これが、生物学者リチャード・ドーキンスのいう「利己的な遺伝子」という考え方である。

この「利己的な遺伝子」というキャッチフレーズとともに、生物は利己的な遺伝子に操られているから、その本性はけっきょく利己的なのだ、人間だって、いろいろきれいごとを言っても、やっぱり例外じゃない、というような、間違った解釈が広く流布するようになった。こうした解釈は、人間の本性は「良い」もの、つまり利他的なものであってほしい、たとえ本性が利己的であっても、学習によってそれが克服可能だ、と考える人たちを立腹させることになったのだが、これは、遺伝子レベルの利己性と個体レベルでの利己性の混同にもとづく誤解だ。遺伝子が利己的であればこそ、個体はときには利他的に振る舞わざるをえないのだ。

しかも、生物学でいう利己的とか利他的とかいうのは、あくまでも自分の遺伝子のコピーをたくさん残せるかどうかという視点から定義されているだけで、個々の個体の快・不快や幸福感とはかならずしも対応しない。自然選択は、つねに最大の繁殖成功をもたらすような行為に最大の快楽を感じるような神経系を優先的に繁栄させるはずだ。繁殖行為に快楽を感じない生物や、繁殖とは関係ないことに没頭してしまう生物がいたとしても、子孫があまり残せないので、そのうちに滅びてしまうだろう。にもかかわらず、人間はしばしば自分の遺伝子を残すこととは関係ないことに歓びをみいだしてしまう。それが、人間という生物のへんなところであり、おもしろいところでもあるのだ。

行動の基本単位はなにか

ふつう、われわれは生物というものの基本単位として「個体」を考える。つまり、この、頭があって手足が生えている、この身体が「生きていること」の基本単位とされる。個体を単位とすると、遺伝子というのは、個体のいろいろな性質、たとえば背の高さとか、酒やミルクの分解能力など、そういう情報を親から子へと伝えていくための媒体とみることができる。けれども、じつは親から子へ、卵や精子にのせられて運ばれていく「遺伝」情報のじつに九割は、具体的な形質をコードしていない。つまり、個体という体をつくるという基準からすれば、なんの役にも立っていない「遺伝子」がほとんどなのだ。

なんの役にも立っていないものがほとんどというのもへんな話だ。基準の取りかたがまちがっているのではないか。見方を逆転させなければならない。つまり、個体の形質を伝えるために遺伝子があるのではなく、遺伝子を乗せるための「乗り物」として個体があるのではないか。

社会学真木悠介は『自我の起源』の中で、生物の個体を列車に、個体の形質をコードしている、「役に立っている」遺伝子を乗務員に、「役に立たない」大部分の遺伝子を乗客にたとえている。乗客と乗務員(遺伝子)は列車(親の個体)から列車(子の個体)へと乗り換えながら旅をするが、列車(個体)のために乗客(「役に立たない」遺伝子)がいるのではない。逆だ。乗客(「役に立たない」遺伝子)を乗せて運ぶために列車が走る(個体が生きる)のだ。列車を走らせる(個体が生きる)ための仕事はなにもしないで、ただ乗っているだけの乗客(「役に立たない」遺伝子)たちが例外なのではない。むしろ、列車のためにはたらく乗務員のほうが例外的な存在なのだ。列車を走らせる(個体を生かす)ために必要なので、仕方なく乗務員(「役に立つ」遺伝子)がいるのだ。

細胞たちの政治学

一人の人間は六十兆個というたいへんな数の細胞の集まりで、それらの細胞のひとつひとつが、アメーバやゾウリムシのような独立した単細胞生物と等価な生命体だ。皮膚によって外界から区別されて、あたかもひとつの生命体であるかのような姿をしているけれども、中身を見てみれば、多細胞生物の「個体」とは、膨大な数の単細胞生物の集合体であることがわかる。皮膚でできた袋に入った小さな「海」の中で、細胞たちは日々の共同生活を営んでいる。そしてそれぞれの細胞たちは、互いに同じ遺伝子を共有しているという理由で、その同盟関係を維持している、と社会生物学は説明する。

哺乳類のような動物の体の場合、発達した神経系による中央集権的支配機構がかなり発達しているが、それでも体の各器官はかなりの自治権を持っている。あれこれ考えなくても、胃は勝手に動いて食物を消化し、心臓は勝手に動いて血液を循環させる。一群の細胞が個体の秩序に反して、増殖する権利(?)を主張してゲリラ的に増殖し始めることもある(16)。癌である。このような叛乱は、早目に鎮圧しないと個体全体の死を招く。

また、細胞間の政治的かけひきは、かならずしもおなじ個体の中だけにはとどまらない。それは個体の外部にも及ぶ。親が子を、子が親を助けるのは、細胞の論理からいえば、親の細胞と子の細胞はすくなくとも半分の遺伝子を共有しているからだ。花子さんが一郎さんに恋をするのは、花子さんという「海」の中に住んでいる細胞が持っている一群の遺伝子が一郎さんという「海」の中の細胞の遺伝子群との新たな同盟関係を結ぶための働きかけとみることができる。花子さんの卵細胞が一郎さんの精子と合体すれば、その新たな同盟関係が成立したことになる。親子関係をつうじて自己は他者へと延長されていき、性関係をつうじて他者は自己へと混入してくる。

もっとミクロに見れば、われわれの体を構成している原子は時々刻々と入れ替わっている。人間は他の生物の死体を食べて生き、かつその排泄物は(下水処理場などで)微生物の食料になる。吐息に含まれる二酸化炭素は植物に吸収されて糖類へと再合成され、そのときに植物が放出する酸素を再利用して、人間は酸素呼吸を行っている。「私の身体」という形は何十年かの間、だいたい同じ形に保たれるが、その中身は日々違うものに変わっていく。ちょうど、流れる川の形は何年たってもだいたい同じだけれども、流れている水じたいは時々刻々と入れ替わっているというのに似ている。

こうしてみると、二本の手が生えていて、二本の足が生えているこの体というものを確固たる実体、認識や行動の主体、欲望や快楽の単位と考えるのは案外、あやういものだということがわかる。

「私」の範囲はどこまで?

たとえ原子がどんなに入れ替わろうとも、「私の身体」という感覚は記憶を媒介にして何年も何十年も一貫して継続する。しかし、物理的な議論はさておき、主観的な感覚から考えても「私の身体」の範囲というのは案外はっきりしないものだ。もし「私」というものの範囲を、「私」が快感や痛みを感じることができ、また「私」の意思によって動かすことができる範囲と定義すると、「私」の胃や腸は「私」ではなくなってしまう。胃や腸は「私」の意識とは無関係に食べ物を消化し続けているし、その作業を意識的に止めようと思っても止められない。おなかの表面を切り開くのは激痛だが、じつは胃や腸それ自体には感覚神経がやってきていないので、切っても痛くない。

逆に、けがをして痛がっている他人を見ると、そのしぐさや表情、声とかを手がかりにして、なんだか自分まで痛いような気がしてくる。「他人の痛みがわかる」人間になれといわれるが、これは、「私」が快感や痛みを感じることができる範囲が「私」である、という、さっきの定義によれば、どうも矛盾した表現だ。「私」以外の痛みは定義上わかることはなく、痛みがわかるならばそれは「私」の範囲内にあるということになってしまう。われわれは、苦しんでいる他人を見ると、道徳的な義務感などなくても、すなおな同情心からその人を助けてあげたりする。これは、さっきの「私」の範囲の定義にしたがえば、利己的な行為だということになる。

また、「ちょっとこの荷物持つの手伝って」とか「そこのバナナ取って」とか、他人に命令して自分の思い通りに動かすこともできる。奇妙なことだが、さきほどの定義にしたがえば、他者も多少は「私」だということになる。

幸福な誤適応

ある種の精神疾患や変性意識状態ではこの「私」の範囲はさらにあいまいになる。

ふだんの意識状態でも、貧乏揺すりしたり、頭をポリポリかいていたりするときは、手や足はほとんど勝手に動いている。この場合、私の手足は、あまり「私」のものだとはいえない。

他人に命令されて仕事をするとき、その手足には命令した人の主体がすこし侵入してきている。いっぽう、ほんとうはだれも命令なんかしていないのに、自分で考えているはずのことが、あたかも外部(たとえば火星人)から送られてきている命令のように思えてしまったり、「火星人」から送られてくる電波で自分の体があやつられているように感じてしまうほどになると、その身体は、ほとんど「火星人」に乗っ取られてしまっている。そして、ついには自分に「火星人」が憑依して「火星語」でお告げをし、ふだんの自分に戻ったときにはそのことをぜんぜん覚えていないとしたら、憑依中の「私」はもはや「私」ではない。「火星人」だ。

トランスパーソナル体験の中では、自分と他人、あるいは自分と外界の区別があいまいになり、ついには完全に一体化してしまう(ように感じる)こともある。こういう現象の中で、人はしばしば絶対的で普遍的な「愛」を体験する。それは、自分とは切り離された他者を愛するという愛ではなく、自分の一部であるがゆえに、他者(というのはやはり語義矛盾だが)を愛するという愛だ。体験者は、その後の人生では現世的な人間関係や「利己的」な野心へのこだわりを減らし、かわりに博愛の精神に目ざめ、献身的にボランティア活動に打ち込んだりするようになる。ここまでくると、もはやなにが利己的でなにが利他的なのかがよくわからなくなる。

血縁者をえこひいきし、恋人や配偶者だけを特別あつかいし、よそ者に対しては「目には目を」という方針でのぞむ、というのが、遺伝子を再生産するための最適戦略だとしたら、トランスパーソナル体験だの、博愛だのというのは、脳の「異常」による誤適応だということになるだろう。しかし、本人がそれでしあわせなら、それでいいのだ。つまり、遺伝子の利益と「私」の利益がなんらかの理由で乖離してしまうときには、「私」には不快な思いをしてまで遺伝子の利益にしたがう義務はない。われわれは遺伝子に支配されていると同時に、その支配から脱落する可能性も持ち合わせている。

蛭川立『性・死・快楽の起源―進化心理学からみた〈私〉』1999年、44-65頁より引用・修正)


(2011/2554-05-28 作成 2015/2558-10-07 修正 蛭川立