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蛭川研究室

蛭川研究室の「はてなブログ」版です

「疑似科学とされるものの科学性評定サイト」について

「何でもかまわない」?

私(蛭川立)は明治大学科学コミュニケーション研究所のメンバーではあるが、西暦2014年に「疑似科学とされるものの科学性評定サイト」が作成されたときには、オーストラリアのクイーンズランド大学人文学部歴史・哲学科の科学哲学研究室に客員研究員として在籍していた。この評定サイトの作成作業には加わっていないし、その後も、内容について、研究所のメンバーと意見交換は行ってきたが、具体的な加筆修正作業には加わっていない。

この評定サイトは、日本語で書かれたものとしては希少価値のある良質な情報源だといえる。しかし、広範囲の現象を扱っている一方で、必ずしも個別分野での専門知識を持っていない少数のスタッフによって書かれているため、不十分な部分が少なくない。このサイトに書かれたことを「明治大学」という大きな組織の見解として、権威づけしたり、批判したりするような議論もあるようだが、そうした誤用は避けるべきである。

私は「科学ではないもの」を(とくに大学の権威を借りて)非難するようなことは、できるだけしたくない。有害な疑似科学を批判するあまりに、有益な空想を妨げるようなことはしたくないからである。それゆえ「科学」と「科学ではないもの」の線引き問題 demarcation problem において、まず参照すべき立脚点は「何でもかまわない anything goes」ということだと考える。ただし、これは積極的な結論ではなく、消極的な立場の表明であり、議論の出発点である。科学は確かに進歩しているようにみえる。しかし、それは事後的に振り返ってそうみえるのであって、進歩が起こっているその最中に、その当事者たちの判断は、意外に合理的ではないことが多い。科学を進歩させる原動力は、しばしば突拍子もない思いつきであったり、非現実的な空想だったりする。そうした、前向きな可能性のある空想の発露は、できるだけ推奨されるべきである。

 (なお、評定サイトにおける、科学性の基準が徐々に改定されてきているので、作成当初の線引き基準についてのコメントは、「科学と非科学の線引き問題」に移動させた。)

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(写真:クイーンズランド・パフォーミング・アート・センター/オーストラリア・ブリスベン

非科学・未科学疑似科学

それでは「疑似科学」の、何が問題なのだろうか。まず「科学ではないもの」が「科学である」と、積極的に主張するところから、問題は発生する。

「科学」と「科学ではないもの」の「線引き問題」については、「科学ではないもの」一般(非科学)と「疑似科学」が混同されているきらいがある。「非科学」一般と「疑似科学」は区別されなければならない。ここで問題になる「疑似科学」とは、「科学的であろう」とする「非科学」である。しかも、それらすべてが「疑似科学」なのかというと、そうではない。「科学的であろう」とする「非科学」のうち、論理的な一貫性を欠いていたり、すでに反証されていたりするものにかぎって「疑似科学 pseudoscience」と呼ぶべきである。理論や実験が不十分であるがゆえに、今後まだ科学として発展しうる可能性のある体系は「未科学 protoscience」として別個に扱われるべきである。新しい科学は必ず「未科学」の領域から発展してくるが、「疑似科学」にはその可能性はない。「現在の科学ですべてが説明されたわけではない」という、しばし目にする主張は当然だが、それは「未科学」の可能性を保証するものであり、「疑似科学」を正当化するものではない。

科学的とされる基準を満たさない体系を仮に「非科学」と呼ぶことにする。しかしこの非科学にも「科学的であろう」とする非科学と、「科学的であろう」とはしない非科学がある。芸術や宗教などの文化的活動の領域には「科学的であろう」としていない「非科学」の体系はいくらでも見いだすことができる。世界が神によって創造されたとする「創造論 creationism」は、聖書だけではなく世界各地の創世神話にあるもので、それを純粋に宗教や文学としてとらえるならば「非科学」だが、神による創造が「科学的事実である」と主張する「創造科学 creation science」は「科学的であろう」としている理論であり、それがまだ反証されていないとすれば「未科学」になり、反証されているとすれば「疑似科学」になる。

  • 科学
  • 非科学
    • 科学的であろうとする非科学
    • 科学的であろうとしない非科学

しかし疑似科学だからといって、ただちに有害だということはできない。一般に疑似科学とみなされる占星術も、それが過去数千年における統計学の産物であると主張した時点で「科学的であろう」としていることになり、たしかに「疑似科学」になってしまうのだが、たとえば星の配置、布置 Konstellation を一種の投影法として、カウンセリングのように利用するのであれば「科学的であろう」としていることにはならず、それが役に立っているのであれば「疑似科学」ではなく、有益な「非科学」だということになるだろう。

なお「科学的であろう」という姿勢は、主観的なものであり、それを客観的に判定するのは難しいが、おおよその基準を挙げることはできる。理論の内部に「波動」や「イオン」などの科学用語を含んでいたり、根拠として統計的な数字(のようなもの)を挙げたりすること、などである。また、科学用語の明らかな誤用もある。「低炭素」という語句が使用される場合、およそ生物の身体が炭素化合物からできていることが理解されていない可能性が高く、「反核」といったときに、それが原子核に反対するということであれば、意味不明である。核兵器に反対するのか、原子力の「平和利用」に反対するかの区別も不明である。

科学用語の濫用の範囲も曖昧で、たとえば「あの人とは波長が合わない」といったときの「波長」は、慣用的な表現であって、具体的に特定の媒質を伝わる波動のことを言っているのではない。同様に「セラピストとクライアントの間には量子的なエンタングルメントが起こっている」といっても、それが慣用的な比喩表現であれば、疑似科学として問題になることはない。この場合「波長」という言葉がすっかり慣用的なものになり、また直感的にもイメージしやすいのに対し、「エンタングルメント」という言葉はまだ専門分野外では聞き慣れない、最先端の科学という雰囲気をまとった言葉であり、また直感的な理解が難しいぶんだけ、神秘的に捉えられやすい、という問題はあるだろう。同じように直感的理解を阻む現代物理学でも「相対性理論は間違っている」という奇妙な言説が横行する一方で、量子力学用語は積極的に濫用されるきらいがある。(私も、過去の言動を自省しなければならない。)

評定サイトの最後の「総評」では、「科学」「発展途上の科学」「未科学」「疑似科学」の四つのカテゴリが使われているが、「発展途上の科学」は「未科学」に含めたほうがすっきりするだろう。また積極的な意味でも「非科学」を加えるべきではないだろうか。上に述べたように、「有益な非科学」は肯定的に評価すべきだからである。場合によっては「有益な疑似科学」というカテゴリさえもありうる。科学の外部にある宗教や呪術などの多くが伝統文化として存続してきたのは、その応用性の高さゆえにであるとも考えられなければならない。

疑似科学の有害性

社会的な有害性がすぐに表れやすいのは疑似医学の分野だが、しかし伝統医療も含めて疑似医学の多くは高々プラセボであり、無害な物が多いのも事実である。多くの問題は副次的なところで起こる。たとえば、費用が高額になってしまうという問題は、保険が適用されないことが多いがゆえに、患者の側に重い負担となる。また、特定の療法を用いることではなく、他の療法を使わないことによる被害も副次的なものである。たとえば「ホメオパシーで死者が出た」といった語りには注意する必要がある。(現在主流となっている)ほとんど存在しないほど希釈した成分を染みこませた砂糖玉を摂取しても健康被害は生じようがない。そうではなく、他の薬を摂取しないことで副次的な健康被害が生じる可能性があるということであり、問題はホメオパシー自身にあるのではなく、通常の医薬品に対する不信という信念体系のほうにある。問われなければならないのは、薬物療法を中心とした近代医学に対する不信感が生じる仕組みのほうであろう。

あるいは、効かないサプリメントを効く薬と称して売ることよりも、効く薬を効かないサプリメントと同列に売ることのほうが問題になることもある。例えば今の日本ではコンビニや家電量販店でも買えてしまうセントジョーンズワートセイヨウオトギリソウ)は標準的な抗うつ薬であるSSRIと同等の作用と副作用を持っており、こうしたものを医師の処方箋なしに売ることができるほうが問題である。

疑似科学と政治的権力・宗教的権威

宗教的権威や政治的権力が科学的言説に介入してくることが少ないのは、現代日本社会の特徴だと言える。アメリカでは創造科学やインテリジェント・デザイン説などが政治的な議論にさえなっている状況からすると、大宗教の権威がほとんど存在しない日本で疑似科学と呼ばれているものが起こしている問題は、幸い、それほど深刻ではない。日本では暗黙のうちに多数行われている妊娠中絶は、キリスト教文化圏では殺人とみなされるが、日本では、たとえば仏教神道がそうした議論を提起するような道徳的な権威を持っていない。

水に綺麗な言葉をかけると結晶も綺麗な形になる、という主張が道徳教育の現場に取り入れられたことが問題視された。たしかに、道徳の根拠を「科学」に求めようとするのは誤った科学主義である。しかし、綺麗な言葉を使おうという主張自体は穏当なものである。教育現場に限れば、例えば国語の教科書に、倒錯した思想を持ち自殺した作家の文章を載せるほうが、青少年の健全育成において、はるかに有害であるとは言えまいか[*1]。自殺の肯定または美化も、大宗教による道徳的な歯止めの存在しない日本社会に内在する難題だともいえる。これからのグローバル化する世界では、イスラーム原理主義疑似科学とでも呼ぶべきものが影響力を持ってくるだろうが、幸か不幸か、移民の受け入れに消極的な日本社会では大きな問題にはならないだろう。

ただし、日本にはあまり宗教的権威は存在しないとはいえ、たとえば仏教式の葬儀の場合、葬儀費用以外に数十万円以上の戒名料を支払うという慣習がある。霊感商法のたぐいとは違って、高額を支払えば病気が治るといった疑似医学的説明がなされることはないにしても、人の不幸にさいして根拠のよくわからない支払いを要求する点では、戒名と霊感商法はそれほど変わるものではない。仏教という思想を否定するつもりはないが、地域社会に貢献し、あるいは悩める人たちの心を癒やすのが僧侶という職業がなすべきことであろう。

政治権力を後ろ盾にした疑似科学としては、ナチス・ドイツのユダヤ人差別や、旧ソ連のルイセンコ学説などがある。しかし、日本では独裁的な政府が科学的言説に介入してくるような状況は起こりにくい。むしろ日本社会で疑似科学を考えるにあたっては、偏った信念が議論を経ずに、社会の雰囲気のように無意識的に共有されてしまうことに注意しなければならない。

たとえば、アルコールの有害性についてはキリスト教仏教イスラームも指摘しているところであり、とくにプロテスタントの文化圏では禁酒主義が一定の社会的勢力になっているが、日本の仏教は禁酒という戒律には無頓着である。向精神薬についての、科学的に正しい知識を普及させようとしているようにみえる『薬物乱用防止「ダメ。ゼッタイ。」ホームページ』には「乱用される薬物」のリストが載っている。これは、ICD-10(WHO国際疾病分類)に依拠していると書かれているが、ICD-10の「精神作用物質使用による精神及び行動の障害」のリストに載っているアルコールとタバコが断りなく除外されている[*2]。

「麻薬」や「薬物」といった、一見、科学的なようで、科学的な根拠のない概念が流布する一方で、酒やタバコは「麻薬」のような危険なものではない[*3]という信念がダブルスタンダードとして存在し、それらを専売にして税金を取り、犠牲者を過小評価するのは、深刻な疑似医学である。しかし、酒やタバコは覚醒剤大麻よりも安全性が高い[*4]という信念は、政治的なプロパガンダによって意識的に植え付けられているわけではなく[*5]、むしろ常識論として漠然と共有されている[*6]。

似たような常識論としては、自動車の危険性がある。あらゆる技術は利便性とリスクのバランスの上に成り立っている。原子力発電所は事故を起こすから危険だという主張に対して、政府がや電力会社がそれを安全だというのは、意識的な情報操作だといえるかもしれない。しかし、自動車は交通事故を起こすから危険だという事実については、政府や自動車会社が安全だという反論をすることは少ない。そもそも素人が自動車を運転することの危険性についての社会的認識が希薄だからである。自家用車は二酸化炭素排出量が多いので公共交通機関の使用を促進しようという主張には、それ以前の、交通事故のリスクについての議論が欠けていることが多い[*7]。明治時代に最初に鉄道が敷かれたときには、蒸気機関車反対運動が起こったというが[*8]、新しい乗り物のリスクに対する拒絶意識は、やがて消えていった。

政治的権力や宗教的権威よりも、「世間」の雰囲気のようなものが人々の信念体系に漠然と影響を与える日本社会では、こうした「常識」の中に無意識に潜む疑似科学のほうに、より注意する必要がある。

「文明」の中の神話的思考

無意識の思考パターンに着目すると、「疑似科学」とされるものの背景に、しばしば「自然への回帰」という共通のイデオロギーが存在していることがわかる。構造主義的人類学は−「未開人」であれ「文明人」であれ−、人間の思考の背景に「自然/文化」というディジタルな双分法が存在することを明らかにしてきた。「未開」社会において、その神話的思考は「自然」から「文化」への移行、という構造を持つが、「文明」社会においては、「文化」から「自然」への回帰という、揺れ戻しが起こっている。じっさい、「文明」社会において、自然への回帰を望んでいるのは、決して無知蒙昧な人々ではない。むしろ、中産階級的で、教育水準が高く、また社会的関心の高い、ある程度物質的に恵まれた人たちが、行き過ぎた「文化」という弊害から「自然」を取り戻そうとしているのである。

だから、個々の「疑似科学」を「モグラ叩き」のように批判することは、問題を解決するのに効率のよい方法ではないだろう。そうではなく、「文明人」の中でも無意識のうちに動き続けている神話的思考の様相を明らかにすることのほうが、「疑似科学」の有害な副作用を「一網打尽」にすることができるだろう。(詳細は「文明社会における神話的思考」を参照されたい。)

疑似科学志向は、しばしば、いわゆる陰謀論とも結びつきやすい。陰謀論信奉については、性別や教育水準とは無関係だということが知られている。パーソナリティ障害としては妄想性 paranoid パーソナリティ障害と相関関係があり、またパーソナリティ理論のビッグファイブでは開放性 Opennness と相関するということが知られている。疑似科学信奉は、低い教育水準や、パラノイアなどの病的な要素だけでは説明できない。物事を通念とは違った角度から捉えようとする、「意識の高い」姿勢と結びつくということ、陰謀論の背景には、社会を良くしようとする積極的な動機があることは考慮されなければならない。

一見、「自然回帰」のイデオロギーとは関係のない「疑似科学」も存在する。血液型とパーソナリティとが関連するという観念がその一例である。こうした観念体系をエビデンスによって反証することは徒労だろう。しかし、これを「今日のトーテミズム」として捉えるとき、こうした観念に対しても、構造人類学的な分析が有効であることがわかる。(詳細は「血液型トーテミズムと婚姻規則」を参照されたい。)


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(2015-05-10 作成 2017-01-13 更新 蛭川立

*1:ただし、私個人は、倒錯の美学というものはありうる、と思う。しかし、それは「18歳未満禁止」であり、高校以下の教科書に載せるようなものではない。そうであればこそ(とくに文学系の)大学教育というものが必要な所以でもある。

*2:カフェインは日本では合法だが「乱用される薬物」のリストに載っている。ただし、どのように有害であるかの説明はない。

*3:向精神薬の実際の有害性については、有害性の種類にもよるので、単純な評価は難しいが、たとえば自己への害と他者への害を分けて評価した研究(Nutt, 2010)が参考になる。(この研究でも有益性については論じられていない。)有害性の度合いは、おおよそ、アルコール>ヘロイン>覚醒剤>コカイン>タバコ>大麻ベンゾジアゼピンサイケデリックス、といったところであり、これは日本における危険な「麻薬」というイメージや、実際の合法性とはかなり異なっている。

*4:タバコの健康被害については盛んに議論されるようになってきたが、それは身体的な有害性についての議論であり、「麻薬」が人格に深刻なダメージを与えるというニュアンスとは違う。

*5:「酒は百薬の長」は、前漢を倒して極端な政策を実行しようとした新王朝が、塩・酒・鉄を専売にして課税対象にしたときの政治的スローガンの一部なのだが、二千年後の日本でその由来もほとんど忘れ去られて普通に使われているこの言葉には、もはやそうした政治的なニュアンスはなくなっている。

*6:「麻薬」についての人類学的分析は「『麻薬』という民俗分類」にまとめておいた。

*7:例えば、国土交通省進行する地球温暖化とわたしたちのくらし(3)公共交通機関の利用促進による二酸化炭素排出量削減に向けた課題

*8:要出典