空手還郷

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日本の輸入文化

縄文時代はさておき、遣隋使や遣唐使の時代から…

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(『空海』予告編)

幕末・維新の時代を経て…

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(『長州ファイブ』予告編)

…現代に至るまで続く「海外から進んだ文化を輸入しよう」という根強い文化が、日本にはある。

西洋の輸入文化

しかし、外部への憧れは、日本だけではなく世界各地にある。世界の中心を自負してきた西洋近代文明は、とくに二十世紀における自己批判の過程で、西洋の外部である東洋から仏教や瞑想など、また先住民文化からも多くの精神文化を輸入した。

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(ロンドンの「シヴァーナンダ・ヨーガ・ヴェーダーンタ・センター」2013年)

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(オーストラリアの「ブリスベン・ヨガ・フェスティバル」2015年)

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(オーストラリア・ブリスベンの「ゼン・セントラル」。「ZEN」というのは「日本的なもの」という意味であり、沖ヨガや指圧や舞踏が同じ場所で行われているが、坐禅は行われていない。2014年)

「ZEN」や「yoga」や「mindfulness」は、西洋人が日常的に嗜める形に翻訳され、もっぱら中産階級の文化としてすっかり根付いている。

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ブリスベン州立図書館で開かれた、チベット仏教カダム派の瞑想会。平日の午後6時開始、15豪ドル(約1500円))

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(参加者の大半だけではなく、指導する尼僧もヨーロッパ系。どことなく「ZEN」と混同されている感もある)

とくに1960年代〜70年代の西欧圏における対抗文化は、ある意味で主流文化の一部として根付いた一方、そのまま高齢化が進んでいる。

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たとえば、衝撃的な対抗文化だった「naturist」のヌーディスト・ビーチにも高齢化の波が押し寄せている。体制に反抗していた若者が高齢化し、体制に反抗しなければならない若者が無力化、保守化している。体制に反抗しなければならなくても良いぐらい、社会が豊かになったということでもある。しかし、それは「先進国」の中産階級以上の社会において、である。

「新時代の科学」の行き詰まりと新しいパラダイムの模索

西欧系社会における対抗文化と呼応するように発展してきたのが「new age science」などと称する文化運動である。この「新時代の科学」(日本では逆輸入されて「ニューサイエンス」と表記される)は、「キリスト教神学的世界観+古典力学的世界観」に対して、それらを「東洋思想(インド哲学道家思想など)・先住民文化+量子力学などの現代物理学の世界観」によって乗り越えようとしたが、その野心的な試みは、ライフスタイルには大きな影響を与えたものの、学術上のパラダイムとしては確立しないまま、現在ではむしろ衰退しつつある。

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(2013年、ロンドンのグリニッジ大学で行われた「サイケデリック意識国際会議」で、精神と物質の双方を含む究極理論「M理論」について講演する、ロンドン大学クイーン・メアリー校の物理学者バーナード・カー教授。M理論の「M」には、通常の物理学におけるMenbraneという意味の他に、MindとMatterの統合、という意味が込められている)

対抗文化としての派手な流行は去ったが、瞑想やサイケデリックスの有効な作用は心理学の分野で徐々に実証的なデータが蓄積されつつあり、近代医学とも矛盾なく共存できるようになってきている。

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サイケデリックスの臨床的研究プロジェクトのポスター。ハートフォードシャー大学健康科学部、2013年)

一方、量子力学が提起している世界観は未だに人間的な理解を超えたままだが、その解釈を東洋思想が説くような唯心論的な認識論と結びつけようという方向性は下火になっている。解釈はどうであれ、物質の振る舞いは確率論的には正確に予測でき、それに基づいて発展してきた電子技術のほうが、実際に我々の人間観を大きく変えようとしている。我々は否応なく「new age」に代わる新しいパラダイムを模索せざるをえない状況に直面している。

日本の逆輸入文化

アジアで発展した仏教が、欧米では西欧系社会に根付いた一方で、アジア系社会にはあまり受け入れられていないという奇妙な状況がある一方、日本では今でも「脱亜入欧」的な、西洋崇拝とアジア軽視が続いている。インドの言葉で「yoga」や「vipassanā」「sati」と言われても関心を示さないのに、ハリウッドのセレブが「ヨガ」をやっているとか、「マインドフルネス」はグーグル社でも採用されている、とカタカナ米語にすると有り難く感じてしまうという、捻れた文化がある。

もし美しい身体を作るために「ヨガ」を行ったり、企業の収益を上げるために「マインドフルネス」を行うとすれば、本来の意味とは全く異なるものだが、しかし逆輸入の良いところもある。アメリカのような多民族社会向けに「翻訳」されることによって、たとえば仏教やヒンドゥー教の諸宗派の教義や伝統的な束縛を受けた寺院組織など、特定の文化的文脈に依存する体系を、より一般的にすることもできる。相互輸入の繰り返しが、より普遍性を高めることは看過できない。

わかりやすい正義

東洋思想が白人(ヨーロッパ系)の中産階級のライフスタイルとして以上に広がらない理由は、ひとつには「難行」であることが挙げられる。たとえば、瞑想して悟りを開こう、解脱しようという仏教の思想は、理念としては高尚だが、普通の人には実践が難しい。

欧米社会で移民排斥の動きが強まる中、ある程度知的なアジア系・アフリカ系の若者たちが「わかりやすい正義」を説くイスラーム過激派に惹かれていくのが二十一世紀的状況である。ある意味で「第三次世界大戦」は始まっているのかもしれない。しかし、それは当初予想されたような、二大勢力間での核ミサイルの撃ち合いではなく、インターネットを通じた情報戦という色彩が強まり、いわゆる物理的な「戦争」とは呼べないものになりつつある。

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(西暦2013年、ロンドン都グリニッジ区ウーリッジ地区で起こった陸軍兵士殺害事件。(犯人自身がカメラを意識しつつ、こんなものは見せたくない、見せて申し訳ないと言っています。映像には殺害の過程などは映ってはいませんが、見たくない方は見ないでください))

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(西暦2014年、シドニー中心街で起こった喫茶店襲撃事件)

イスラームは皮相的に誤解されているような厳しい宗教ではない。絶対者の前では個々の人間は等しく弱い存在であり、それゆえ無理な修行を強いない、ただ信仰のみによって天国が約束されるという点のみに限れば、日本仏教でいえば、最も一般に受け入れられてきた宗派である浄土真宗に似た思想を持っている。また、キリスト教のミッションが世界の隅々の人間に福音を伝えようとしているのに対し、イスラームの体系は異教徒の存在を前提に作られている点にも特徴がある。

問題はイスラームという宗教にあるのではない。それが生まれた中東という地域に石油が偏在しており、その資源に支えられ、アジアやアフリカからの労働力に支えられてきた欧米社会の構造自体の中に問題があるといえる。

日本に期待されている未来

ヨーロッパ系の、とくに若い世代の中には、日本のハイテクやサブカルチャーの中に未来の可能性を見いだそうとしている人たちも少なくない。

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クイーンズランド州立現代美術館の特別展示『我々はもうひとつの未来を作ることができる—1989年以降の日本美術—』の図録。表紙は新宿の歌舞伎町の写真。2015年)

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(同上「草間弥生展『自己消滅の部屋』」)


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(本山博が開発した経絡計測器「AMI」は、日本よりも海外で高く評価されている。イギリスのハートフォードシャー大学健康科学部のジャックライン・ヤング教授。2013年)

たしかに、発展した電子技術が人間の生活を根本から変えようとしているという点では、たとえば「秋葉原的な」文化は確かに近未来的ではある。しかしそれは未だ文化的混乱の域にあり、体系的な思想を成すものではない。現代日本への安易な憧憬は、幻想の東洋への憧れの繰り返しではないだろうか。

インターネット社会においては自己が拡散しがちである。修行によって変容させなければならない自我自体が不明瞭になっている。身体感覚のヴァーチャル化も進んでいる。コンピュータもインターネットも西欧圏で発展してきたものだが、もともとは軍事技術という、非常に強い目的を持っていた。しかしこれを「hentai」的な文化へどこまでも拡張していけるのは、たしかに、もともと強い自我を持たない、そして無駄なことを楽しんでしまう「遊び心」を持った日本文化の特徴かもしれない。

「幻想の相互輸入」を超えて

ヨーロッパ人も、アジア人も、幻想の投影のし合いを止めて—カタカナ米語のグローバリズムより広い意味で—真の意味での地球人的な精神文化を共創していかなければならない。その中で、西洋と東洋、伝統と文明という座標軸とは異なるところで発展してきた近現代の日本文化の役割が大きいことは、もっと自覚されなければならないだろう。

(この文章は2015年5月16日に東京で行われた対談、蛭川立×木戸寛孝「この特殊な場所から新たな精神文化を構築できるか?」の資料として書いたものです。

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対談は終わりましたが、内容にはまだ不十分なところもあります。今後も修正が必要なところは修正します。コメントも歓迎です。)

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(2015/2558-05-08 作成 2017-11-13 修正 蛭川立