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蛭川研究室

蛭川研究室の「はてなブログ」版です

よくある質問・要望と回答

【質問】

いろいろな研究をされているようですが、要するに、専門は、なに学なのですか?

【回答】

強いて既存の分野を挙げるなら、最も近いのは「心理人類学 psychological anthropology」でしょうか。人類学の下位分野としては、「言語人類学」や「社会人類学」、あるいは「経済人類学」など、頭に漢字二文字で「○○」とつければ、なんでも人類学にできてしまう許容範囲の広さが、また人類学という学問の特質でもあるのですが、それらは、普通の心理学や言語学社会学や経済学と何が違うのでしょう。「人類学 anthropology」というのは、文字どおりに解せば「人類 anthropos」を研究する学問だということになります。それでは、人間を研究する他の人文・社会科学や、医学のような分野とどこが違うのでしょうか。以下は、幾らかは私なりの見解ですが、研究対象とする「人類」の範囲が広いのが、人類学の特徴だといえます。つまり、いわゆる先進国、多数民族の人たちだけではなく、少数民族、あるいは、何万年も昔の人たち、そして、その祖先であった動物たち、共通の祖先から分岐した、チンパンジーやゴリラなどの近縁種まで「人類」の視野に入れるということです。

「心理人類学」にも、より細かい下位分野があります。私はアメリカ人類学会の会員ですが、分科会は「Anthropology of Consciousness」に所属しています。日本語での対応概念がないのですが、強いて訳せば「意識人類学」となります。類似の分野に「認識人類学 cognitive anthropology」という領域もあります。認知科学と人類学の境界領域です。

私自身の、より狭い、具体的な関心は、近代科学的な合理性の範囲外にある、呪術、信仰、信念、神話、あるいは広義の芸術などの中に、より広い意味での合理性を見いだすことにあります。とくに、そうした「不合理な」文化を生み出す、瞑想状態やトランス状態などの、特殊な変性意識状態を研究する、「意識研究 consciousness studies」や「トランスパーソナル心理学 transpersonal psychology」といった分野、あるいは、現在の科学理論ではまだ説明されていないが、今後、説明される可能性のある「未科学」を検討する、「超心理学 parapsychology」や科学哲学といった諸分野の交わる領域に、研究の焦点があります。

西暦で二十世紀に入ると、西洋近代科学の基本となっていた古典力学的世界観の限界が明らかになりました。世界大戦と、その後の植民地の独立という政治的な背景と並行して、西洋近代文化が最も進んだ文明であるという認識にも揺らぎが生じてきました。文化人類学という学問も、こうした時代的要請とともに(自然人類学を含む)広義の人類学から発展してきた、比較的歴史の浅い、現代的な研究領域です。そこでは、多文化の共生ということがテーマになります。しかし私としては、その前提となる、個々の文化の世界観(コスモロジー)の基礎付けのほうに、より関心があります。未開で呪術的であり、それゆえに非科学的であり、誤りであるとされてきた論理ー例えば、精霊に祈ることで病気が治るといった観念ーを、近代科学とは別種の合理性によって説明できる可能性を考えています。レヴィ=ストロースが集大成した「構造人類学 anthropologie structurale」は、表層的な不合理性の背後に、無意識のレベルでの合理性を見いだそうとしてきました。あるいは、時空や実在について、古典力学的常識とは異なる枠組みを必要とする、量子力学相対性理論などの現代物理学が、一見「超常的 paranormal」にみえる現象を説明できるのだという考えもあります。

文化の呪術的な側面に注目するという意味では、「宗教人類学 religious anthropology」にも近いものがありますが、人類学が扱う人間集団が、上記のような、時間的、空間的な広がりを持つので、宗教人類学が「宗教」という場合には、二千年ほど前に創唱された普遍宗教だけではなく、個々の民族に伝わってきた民族宗教や、シャーマニズムアニミズムなどの民間信仰、あるいは現代社会における新宗教や、流行としての占いの類まで含めて考えています。ここでの「宗教」とは、精神文化の全体だといってもも過言ではありません。文化が世俗化し、その中の超自然的な要素が「宗教」という特殊な領域に囲い込まれてきたのは、むしろ近代社会の特徴と言えましょう。

人類学は西洋文明の自省の学だともいえますが、日本人として、こうした分野を研究することにも意味を感じています。個人的には、仏教思想などにも関心があり、いつの間にか「京都学派」の影響を受けているところもありますが、その意味では、藤岡喜愛の「精神人類学」という分野にも近いものも感じます。直接、藤岡先生の薫陶を受けたことはありませんし、「精神人類学」は、一代限りで終わってしまった感がありますが、問題意識の重なりを感じます。久松真一→加藤清→藤岡喜愛←今西錦司という流れの中で、直接お話をしたことがあるのは、加藤清先生だけですが、一見、意味不明に思える語りの中に含まれる先見性には、驚かされるものがありました。

手短に説明しようとしても、どうしても長文になってしまいます。既存の学問分野名では分類できない、未知の分野を探求していくことに、研究者としての意味を感じています。それは、ただ単に広く浅い博物学的関心ではありません。また学際的な研究というものは、個々の既存分野における、長い地道な積み重ねがあってこそ可能になるのですから、既存の諸分野に対しても、つねに敬意を払っています。ただ既存の枠組みを壊してみせるのは、本意ではありません。既存分野の精緻化と、新しい総合への試みと、その両方が必要であり、分業と協力が必要です。「情報コミュニケーション学部」という所属も、なかなか説明が難しいのですが、こうした新設の総合学部は、後者の役割ー新しい総合への試みーを担うものだと考えています。

(2015/2558-04-27 作成 2016/2559-04-14 修正 蛭川立