悲しき北回帰線/どのようにして人は民族学者になるか

北回帰線の長いトンネルを抜けると熱帯であった。土が赤くなった。

初めて目にするラテライトの大地。その鮮烈な色彩が視野に広がる。

枕元のiPhoneが振動した。夢の世界から、急に物質世界に引き戻される。例によってスーザンは突発的にメールを送ってくる。彼女は、そういう人だ。いきなり、レイコを紹介したいので近所の近代美術館あたりで落ち会えないか、という内容。瞼の裏には、ラテライトの大地の、赤い色彩の残像。あれは、ついこの前に行った、ノーザンテリトリーの風景だろうか。あるいは、学生時代に行った台湾の東海岸の風景だったような気もする。

レイコとは聞いたことのない名前だったが、おそらく日本人女性だろう。古典ギリシア語が専門のスーザンは、私が籍を置いていた、クイーンズランド大学、歴史・哲学科の先輩にあたる。日本からの留学生でも紹介しようというのだろうか。

予想に反して、スーザンの紹介で目の前に現れたのは、矍鑠たる老教授であった。正確には、グリフィス大学名誉教授。会社人類学者、渥美泠子先生との出会いだった。

この威厳ある御婦人の曰く、自分は大学を退官して、もう八十を過ぎた、いつ天国に召されてもおかしくない。ついては、蔵書を処分したいとのこと。大学に寄贈すれば良いではありませんかと言うと、今は図書館も手一杯で、もう紙媒体の書籍は受け付けてくれないのだそうだ。かといって、捨てるわけにもいかない。古書店に売りたくもない。書物の価値のわかる人に譲りたいのだと、要約すれば、そういう話だった。

日を改めて、ブリスベン郊外の、緑豊かな閑静な住宅街にある、渥美先生のお宅にお呼ばれした。書斎には、マリノフスキー、ミード、リーチなどの古典的著作から始まって、正統的な文化人類学関連の英語書籍がずらりと並んでいる。日本語の本ならともかく、英語の本なら、学生諸君などに譲ってもいいのではないだろうか。なぜ初対面の、得体の知れない日本人に、貴重な蔵書を託そうというのだろうか。

ともあれ、大量の書籍を二回に分けて自宅に運び、箱詰めしながら、名著たちのページをめくった。学生時代に和訳で読んだ記憶が蘇る。ここしばらく、哲学や心理学などの隣接分野を彷徨いていたのだが、あらためて、自分が「人類学者」だったことを再確認した。ちょうど「遣唐使」を二年で「切り上げ」て、日本に戻ろうとしていたところだったから、その寄贈された本たちも、引っ越し荷物とともにまとめて、船便で日本に向けて発送した。

なにか、老師から免許皆伝されたようにも感じられた。あらためて、身が引き締まる思いがした。

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文化人類学という、この一風変わった学問に魅惑を感じるようになったのは、京大の理学研究科の修士課程で、認知機能の進化について理論的な勉強していたころだった。京大はアフリカ研究の盛んなところでもあり、文化人類学のイメージといえば、見るからに屈強で、何を食べても死ななそうな、そんな豪快な男たちだった。だから、およそ海外でのフィールドワークなど、自分のような、痩せすぎで不健康な引きこもりとは、まるで別世界のことだと思っていた。

そもそも、仮に文化人類学を専攻しようと思っても、当時の京大には、専門の学科がなかった。理学部や農学部などの大学院に籍を置きながら、世界各地のフィールドとの往復生活を送っている先輩たちばかりであり、彼らはむしろ、確立された権威の存在しないアマチュア的な学問の徒であることを誇らしく思っているようでもあった。

ひょんなことが、きっかけだった。精神医学を研究している知人からの紹介で、JALの機内誌に、ちょっとしたエッセイを書くことになった。謝礼は、現金ではなく、日本中どこへでも飛んでいくことのできる航空券だった。どこへでも飛んでいけるのなら、できるだけ遠くに行くのが得ではないかと、そう単純に考えて、那覇に飛んだ。そもそも海外旅行などしたこともなかった私にとって、そこはすでにどこか異国のように感じられた。だからその印象は鮮烈だった。これが沖縄文化との最初の出会いだったが、そのことについて詳述するのは、別の機会に譲りたい。(拙著『精神の星座』の第一章など。)

どうせなら、勢いで、このままもっと南を目指そうと思った。夜の那覇新港から客船の二等室に乗り込み、翌朝、台湾の基隆に上陸した。台北の迷路のような夜市でたっぷり食欲を満たして眠りについた後、さらに列車で東海岸を南下し、北回帰線を越えた。定義上、はじめての熱帯入りだった。さらに台東から小型飛行機に乗り、台湾のさらに南の小さな島、蘭嶼の機場に着陸した。ここには、もう漢民族はほとんどいなかった。三千人ばかりの島の住人のほとんどは原住民ヤミ(タオ)だったが、じつに陽気で人なつこい人たちだった。年寄りたちは、私が日本人と知ると、植民地時代に教えられた日本語で、懐かしそうに話しかけてきた。村の教会で牧師の手伝いをしている、シャプン(「孫のいる人」の意)・パガバトゥンという老人の家に招かれ、そこでしばらく過ごすことになった。彼は勤勉なクリスチャンであり、私はその教化された原住民に勧められて、はじめて聖書という書物に触れることになったのだから、奇妙な話である。

パガバトゥン爺さんの家でくつろいで窓の外を眺めていると、二人の漢民族らしき女性が外を通りかかった。剃髪しているところからして、尼さんたちのようだった。なんとか筆談で意思疎通ができた。「現代佛教學會・弥勒出版社」の取材で、放射性廃棄物貯蔵施設へ向かう途中だという。

毎日の食事はたいてい、パガバトゥン爺さんか、息子さんが海で獲ってきた熱帯魚と、女性たちが栽培したタロイモで、これを、彼の家族に混じって一緒に食べた。彼は、これは毒の魚だ、と言っていた。台湾人が我々の島にゴミ捨て場を作った。ゴミの毒が海に流れ出した。どうして他人の家にゴミ捨て場を作るのか。ゴミ捨て場は自分の家の庭に作るものだ、とも言っていた。最近、台湾電力がこの島に「缶詰工場」を建設したのだということを、この島に来て初めて知った。

他にも、色々と奇妙で、そして興味深い体験をしたものだが、それらを思い出し続けるときりがない。とにかく、初めての海外旅行が、最初からこんな具合だったから、私はこの、文化人類学あるいは民族学と呼ばれる不思議な学問が醸し出す「毒」にやられてしまったわけである。ヤミのおじさんたちと片言の日本語で話し込んでいるときには、もう自分が虚弱な引きこもりだということは忘れてしまっていた。エンジニアとして台湾に赴任したエドモンド・リーチもまた、同じ蘭嶼で天職を悟ったという話は、後から知った。

京都に戻った後、パガバトゥン爺さんに、一緒に撮った写真を送った。丁寧な言葉遣いの、カタカナ書きの日本語の返事が来た。あの手紙は、捨てたはずはないが、未整理の書類の中に埋もれて消えてしまった。しかし、手紙の最後の言葉は憶えている。「タダ マジメニ ハタラクコトデス タダ ベンキヨウダキ シナサイ」。


(→台湾原住民タオ(ヤミ)についての概説

(→「台湾 蘭嶼島: 先住民の島に放射性廃棄物」(報道特集))


(追記)この小論は、原子力発電に対して特別に反対という政治的な意図をもって書かれたものではありません。しかし、「原発の燃料は先住民の土地で掘り起こされ、使用済み廃棄物は先住民の土地に埋められる」というのも事実です。ただし、外部から来た人間が先住民の土地を乱すことと、放射能汚染は別問題です。とくに地表付近に放射性物質を含む鉱物がない場合、地上1mの空間放射線量は、だいたい0.03μSv/h程度であれば普通です。

参考までに、昨年、蛭川自身が訪れた、北部オーストラリアのレンジャー・ウラン鉱山を巡る状況についての簡単なメモを別ページに書いておきました。ことの顛末の詳細につきましては『サンガジャパン』20号にレポートを書いています。


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(2015/2558-04-19 作成 05-04 修正 蛭川立