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蛭川研究室

蛭川研究室の「はてなブログ」版です

起源神話の行列による表記

行列による対称変換で南米先住民の神話を表現する。

文化起源神話は、まず、現在の人間は文化を持っているが、人間以外の動物は文化を持たない自然状態である、ということを前提とする。そして、その筋書きは

  1. もともと文化を持っていなかった人間が、動物から文化を入手する
  2. もともと文化を持っていた動物が、人間に変化する
  3. もともと文化を持っていた人間が文化を持たない動物に変化し、もともと文化を持っていなかった動物が文化を持つ人間に変化する

の三通りに集約される。

まず、
動物-人間という軸(X軸) と、 自然-文化という軸(Y軸)(例えば、火を持たない-火で料理や土器作りをする、など)
の2次元平面を考え、その平面上での対称変換として、神話のストーリーを表現してみる。どのパターンの神話も、結論は、現在の人間は文化を持っているが、人間以外の動物は文化を持たない自然状態である、ということになり、それを行列の形で


 \(\array{\\{Human}\quad{Animal}\\{Culture}\quad{Nature}\)

と表すことにする。これに対して(物理的時間ではなく、神話的時間における)過去の状態は三通りあり、そこから現在の状態に至る物語にも三種類がある。その三種類の筋書きが、三種類の対称変換として表現できる。ここでは「-1」をかけると反転が起こることにする。人間は動物になり、動物は人間になり、文化は自然になり、自然は文化になる。


1、線対称変換(X軸に対して対称な鏡映群)
 (文化を持たない人間が文化を手に入れる)

 f\(\array{x\\y}\)=\(\array{\\{1}\quad{0}\\{0}\quad{-1\)\(\array{x\\y}\)=\(\array{x\\-y}\)

 \(\array{\\{1}\quad{0}\\{0}\quad{-1\)\(\array{\\{Human}\quad{Animal}\\{Nature}\quad{Culture\)=\(\array{\\{Human}\quad{Animal}\\{Culture}\quad{Nature}\)

もっとも一般的なパターンで、人間がジャガーから火を奪う神話はこれに相当する。

2、線対称変換(Y軸に対して対称な鏡映群)
 (文化を持っていた動物が人間に変化する)

 g\(\array{x\\y}\)=\(\array{\\{-1}\quad{0}\\{0}\quad{1\)\(\array{x\\y}\)=\(\array{-x\\y}\)

 \(\array{\\{-1}\quad{0}\\{0}\quad{1\)\(\array{\\{Animal}\quad{Human}\\{Culture}\quad{Nature\)=\(\array{\\{Human}\quad{Animal}\\{Culture}\quad{Nature}\)

3、点対称変換(回転群)
 (文化を持っていた人間が文化を持たない動物に変化し、文化を持っていなかった動物が文化を持つ人間に変化する)

 h\(\array{x\\y}\)=\(\array{\\{-1}\quad{0}\\{0}\quad{-1\)\(\array{x\\y}\)=\(\array{-x\\-y}\)

 \(\array{\\{-1}\quad{0}\\{0}\quad{-1\)\(\array{\\{Animal}\quad{Human}\\{Nature}\quad{Culture\)=\(\array{\\{Human}\quad{Animal}\\{Culture}\quad{Nature}\)

これはすこし特殊なパターンだが、ヒバロの神話で人間だったアオホが粘土を地上の人間にばらまいて自分はヨタカになってしまう話や、逆にマタコの神話で人間の祖先だったカマドドリが火の持ち主である巨人を怒らせて人間界が火で焼かれる話がこれに相当するのではないだろうか。そう考えると、ヨタカとカマドドリが、この同じ点対称変換において

  • ヨタカ・・・・・人間が鳥に変化する
  • カマドドリ・・・鳥が人間に変化する

という鏡像関係になっていることもわかる。

ところでこの三つの変換を行う関数は、互いに
 fg=gf=h
 hh=I
という関係にあり、鏡映変換をそれぞれ二回ずつ行うか、πの回転変換を二回行えば、恒等変換となって元に戻ることを意味する。その変換群の全体が神話の構造なのであり、全体できちんとひとつの集合の内部に完結している。「神話の大地は丸い」という所以である。

(2006/2549-11-18 作成 2016/2559-06-27 更新 蛭川立

起源神話における時間対称性の破れ

楽園追放

 地球上で最もよく知られるようになった起源神話は、『聖書』の「創世記」であろう。創造神に「食べてはいけない」と指定された果実を食べてしまう、という出来事をきっかけに、人間は分別知を得るが、その代償として、人間は、農耕を行わなければ生きられなくなり、寿命は有限になり、衣類を着るようになる。こうした起源神話は、古代のヘブライ文化だけではなく、様々な文化に普遍的にみられるものである。

 新しい時代になって西洋人によって「採集」された、無文字文化の神話の中には、西洋人自身が持ち込んだ、この古代ヘブライ的な神話が「混入」している可能性もあるが、神話の基本構造がヒトという種の情報処理に普遍的な、集合的無意識(普遍的無意識) Kollektive Unbewußte に由来するのだと考えれば、こうした「混入」は、本質的な問題にはならない。

やきもち焼きの土器作り

 一例として、レヴィ=ストロースが『やきもち焼きの土器作り La Potière Jalouse』の中で論じている、アマゾン上流域の先住民、ヒバロの神話をとりあげてみよう。

昔々、アオホという名の女が、二人の夫とともに暮らしていた。一人の名は太陽。もう一人の名は、月。アオホは温かい太陽に抱かれるのを好み、冷たい月を嫌うようになった。それを妬んだ月は、背の高いつる植物を伝って天に昇って行き、さらに太陽に息を吹きかけてその姿を消してしまった。

 二人の夫が続けて姿を消したことに狼狽したアオホは、土器を焼くための粘土を入れた籠をかかえ、自分もつる植物を伝って後を追っていこうとした。しかし、そのことに気づいた月は、縁を切るためにそのつる植物を切ってしまう。アオホは地面に墜落し、持っていた粘土は地面にばらまかれた。太陽と月は天体に姿を変え、アオホはヨタカ、つまりヒバロ語でアオホと呼ばれる鳥に姿を変えた。

 太陽と月が同じ空で輝かないのも、ヨタカが悲しげな鳴き声で鳴くのも、地面のあちこちで土器を焼くための粘土がとれるのも、このような出来事のゆえである。

 (蛭川立「始原の神話時間」『風の旅人』41, pp. 19-22.)

 これは、婚姻規則の起源(漢字の意味とは裏腹に、一夫多妻が可で、一妻多夫が不可なのは、男は女よりも、より嫉妬深いからとされる)と、土器の起源を語る神話である。「土器を焼く/料理を作る」こと(及び、良い粘土がある場所を秘密にしている他の女に対して「妬く」こと)は、いずれも女の領分であり、火の作用によって「軟らかいものが固くなる/固いものが軟らかくなる」。この物語では、粘土が地上にもたらされた代償として、天と地をつないでいたつる植物が断ち切られてしまう。

f:id:ininsui:20010823171742j:plain

(アマゾン上流域先住民シピボの土器作り。本文とは直接関係ありません。)

神話における時間対称性の破れ

 神話は繰り返し、自然状態にあった人間がいかにして文化を獲得したか、そして、そのためにどのような代償を支払わなければならなかったのか、ということを語る。それは、一方では文化を獲得するという進歩の物語であると同時に、しばしば失われた自然への郷愁 saudade の響きも含む。西洋文明が発達させてきた物理学的宇宙論 cosmology においても、この、初期の世界における不可逆的な対称性の破れというテーマが繰り返し現れる。

 西洋文明の物理学者/天文学者たちは、巨大な加速器/望遠鏡を作って、対称性が破れる以前の、始原の世界を再現/観測しようという、狂おしい努力を続けている。『聖書』を物理的な時間軸で解釈する原理主義 fundamentalism は、人間が原罪 sin を悔い改めれば、無限の寿命が再来するとする。しかし、失われた過去の楽園からの追放という出来事は、物理的時間軸上で起こったことではなく、神話的時間軸上の出来事である。だからといって、神話に書かれたことは虚偽の歴史であって、無意味だ、というのではない。物理的な世界も、神話的な世界も、どちらもリアルなものである。(ただし、潔癖な原理主義的宗教運動が、その教義の妥当性とは別に、堕落しがちな既存の宗教的権威に対する批判的浄化作用を持ち、民族的差別や家庭内不和などに苦しむ人々にとっての救済の物語を提供していることは、それもまた神話の文化的意味として積極的に捉えたい。)

「霊的な」つる植物

 しばしばアマゾン上流域の神話にあらわれる「つる植物」は、もちろん、物理的物質でできたつる植物ではなく、いわば神話的な時空の中の、「霊的な」つる植物である。日本語で「つる植物」と訳されるのは、インカ帝国の影響によって南米北西部の共通語となったケチュア語では「ワスカ huasca」という言葉で指し示される植物群のことで、正確には翻訳不能な概念であるため、どうしても「つる植物」というぎこちない訳語を使うしかない。ともあれ、神話的時空に存在するのは、「霊的な」「つる植物」であり、ケチュア語では「アヤー ayar +ワスカ huasuca」=「アヤワスカ ayahuasca」となる。アヤワスカは、いわば神話的時空における、加速器/望遠鏡である。

 じっさい、アマゾン上流域には、アヤワスカ ayahuasca と呼ばれるつる植物が存在する。それは、Banisteriopsis caapiという植物のことでもあり、その蔓を煮出して作るお茶 o chá のことでもあり、さらにまたその茶の中に宿る精霊のことでもある。インカ帝国の後で支配者 conqustador の言語となったスペイン語でクランデーロ curandero/a (治療者)とも総称されるシャーマンたちは、茶会でこの精霊の力を得て、天と地の間を自由に行き来することができる。茶会は神話的時空への入り口であり、いったんそこに入ってしまえば、神話的時空は対称だから、切断される以前のつる植物の時代(オーストラリア英語風にいうなら、ドリームタイム dreamtime)に戻ることもできるし、その「霊的な」つる植物を伝って、天界と自由に行き来し、「霊的な」太陽や月たちと語り合うこともできる。そこは、植物も人間も太陽も月も対等な関係にある、失われた、しかし戻ろうと思えば、いつでも戻れる、楽園である。霊的な薬草の作用によって、神話的時間は対称性を取り戻し、原罪以前の楽園へと戻ることができる。

 神経科学的にみると、アヤワスカの有効成分はDMTという、インドール核を持つ典型的なサイケデリックス psychedelics(エンテオゲン entheogen)である。これは、5-HT2A受容体のアゴニストであり、セロトニン作動性ニューロンに働きかけ、何らかの形で、直線的な時間認知を抑制する作用があると考えられる。過去・現在・未来という順を追った認知が抑制されると、現在が永遠であるような感覚が引き起こされる。人は、物理的には有限の時間を生きるが、霊的には永遠の生命を生きるのである。

 こうした茶会に参加できるのは、クランデーロだけの特権ではない。アマゾン上流域の社会では、一般にこのような茶会には、クライアントも含めて、誰でも参加できるという雰囲気があり、これを、ヒバロ社会を調査したマイケル・ハーナーは「霊的民主主義 spiritsual democracy」と呼んでいる。

 おそらく従来の構造主義的な神話学に、足りないところがあるとすれば、このような「霊的な」茶会への参与観察であったといえる。神話や宗教に関心を持ち、研究しているどんな人にも、神話的時空に来たことがありますか、と聞きたい。もし、来たことがない、というのなら、ぜひお茶を一服どうぞ、と言いたい。もし、もう来たことがある、という人にも、ならばお茶を一服どうぞ、と言いたい。そもそも、どうして来たことがあるのかとか、ないのかとか、そんなことを聞くのかと訝る人がいるのなら、その人にも、まずはお茶を一服どうぞ、と言いたい。

(参考→「アマゾン先住民シピボのシャーマニズム」)


(2006/2549-11-13 作成 2016/2559-06-27 更新 蛭川立

邪術がもたらす均衡

出る杭は打たれる

 キリスト教暦で2001年の9月11日、ニューヨークのワールドトレードセンターが、乗っ取られた飛行機による自爆テロで崩れ落ちた。21世紀の始まりを象徴するかのような不気味な事件だった。この日僕はアマゾン上流のとある町に滞在していたのだが、最初は情報が断片的で何が起こったのかよくわからなかった。日本がまたアメリカと戦争を始めたらしい、というデマまで飛び交う始末だった。たしかに、屋台のスポーツ新聞を見ると、「第二の真珠湾!」などという見出しが踊っている。日本にいるときのほうがテレビも新聞もほとんど見ないのだが、さすがにこのときだけは新聞や雑誌を買いあさり、テレビの画面にくぎ付けになった。
 アメリカ的近代主義では個人が自由に競争することがよしとされ、勝ったものは賞賛される。フェアでわかりやすい社会だ。その反面、能力の低い人や運の悪い人には厳しい社会でもある。勝った人には勝った人で、勝ちつづけなければならないというストレスがかかりつづける。勝った人間をねたんで引きずりおろそうという後ろ向きな考えは、アメリカ的ではない。とはいえ、広く地球規模で見れば、そういうルサンチマンで動いている社会は少なくない。そして、世界システムの勝者アメリカは、世界中からねたまれている。資本主義の勝者の象徴、ツインタワーが黒煙を上げて崩れ落ちる映像が何度も何度もブラウン管に映し出されるのを見るにつけ、「出る杭は打たれる」とはまさにこのことだと思った。
 アマゾン上流域には、シャーマニズム、とくにアヤワスカを求めて外国からたくさんのお客さんがやってくる。研究のためというよりはむしろ、自分たち自身が癒されたい、あるいは解放されたいと思ってやってくるのだ。日本人などのアジア系は少数で、やはりアメリカの白人が多い。アメリカ人以外では、ドイツ系、イギリス系、あるいはユダヤ系の人々が多い。同じ西洋人でも、地元に住んでいるスペイン系の人たちはあまり関心がないようだ。がんらい陽気なラテン系の人たちは、わざわざ大変な思いをして解放される必要などないのかもしれない。飛行機に乗ってはるばるやってきた西洋人たちがシャーマンの指導の下、神妙な顔をしてアヤワスカの儀式を執り行なっている、そのすぐとなりの家では、地元の子供たちがコカ・コーラを飲みながらテレビでポケモンドラゴンボールを観ているというような、奇妙なすれ違いが日常的な風景になってしまっている。こういうアヤワスカのセッションは単純なもので、民家でごくふつうに行なわれる。アヤワスカ一杯の値段は日本円にして千円ぐらいで、現地の物価からすればけっして安くはないが、はっきり相場が決まっているわけでもないし、がめつくボッタクろうという感じもしない。ただ持てるものが持たざるものに支払うのは当然といったふうである。アヤワスカの儀礼が観光用のパッケージツアーに含まれていることもある。たとえば、自称「シャーマン」のガイドで森を散策し、生態系と共生する先住民の〈聖なる〉知恵を学び、特別オプションとして、夜のヒーリングの秘儀で一杯百ドルのアヤワスカを飲む。そしてツアーに参加した外人観光客は、光と愛と平和の体験によって、日常のストレスを癒し、見失いかけていた本当の自分を再発見し、また家庭へ職場へと帰っていく。ときには一杯のアヤワスカが人生を変えてしまうこともある。そういうことなら、一杯百ドルという価格設定はけっして高いとはいえない。

アヤワスカの時代

 「先進国」でのサイケデリック・ハーブの歴史は、およそ三つの植物の時代に分けられる。最初に注目されたのがペヨーテで、一九世紀末には学名がつけられ、有効成分のメスカリンが分離された。A・アルトーの『ペヨーテ・ダンス』、A・ハクスリーの『知覚の扉』、そしてひょっとしたらサルトルの『嘔吐』も、彼らの、ペヨーテ=メスカリン体験から生み出された。ペヨーテ=メスカリンは、どちらかといえばヨーロッパの知識人の間で流行した。いっぽう、アメリカ合衆国では一九世紀末より、ネイティヴ・アメリカン・チャーチなどの、先住民のアイデンティティ回復運動と結びつき、ペヨーテ文化は原産地であるメキシコから北米へと広がっていった。
 「マジック・マッシュルーム」と、そこから分離されたシロシビンは、1960〜1970年代のサイケデリック黄金時代にLSDと並んで注目され、植物性サイケデリックスとしては「先進国」ではもっともポピュラーになった。「マジック・マッシュルーム」などというと怪しげだが、和名をシビレタケといい、日本はもちろん世界中に普通に生えている。しかしこのキノコを儀礼的に使用する伝統をもっているのは中米の先住民族だけだ。なかでも銀行家であり菌類学者でもあったG・ワッソンとLSDの生みの親A・ホフマンに見いだされたマサテコ族のクランデラ(女シャーマン)、マリア・サビーナは、一躍この時代のヒロインとなり、彼女の住むメキシコ・オアハカ州の小さな山村、ワウトラ・デ・ヒメーネスはヒッピーの巡礼地のひとつとなった。1985年に彼女が亡くなったあとは、シャーマン業は孫のガルシアさんが細々と引き継いでいるが、いまでは観光客がやってくることはほとんどなくなり、村はまた昔の静けさを取り戻している。
 「マジック・マッシュルーム」は1990年代以降本格的に広がりはじめた日本のサイケデリック・カルチャーの中でも中心的な役割を果たしたが、2002年には欧米の例に倣って非合法化された。
 そして三番目に注目されてきたのがアヤワスカである。1960年代に地上最強のサイケデリックス、ヤヘ(アヤワスカ)を求めて旅したW・バロウズがA・ギンズバーグと交わした書簡『ヤヘ・レターズ』によって、アヤワスカはヤヘ(英語訛はイェージュ)という名前で欧米のサブカルチャーの世界で知られるようになるが、じっさいにはむしろ1990年代に入ってから本格的に流行してきたようだ。熱帯雨林からやってきた神秘的なハーブというイメージが、「エコロジー」や「アーバン・シャーマニズム」の流行と重なって、人々の心をとらえたのかもしれない。2000年の3月にはサンフランシスコで、カリフォルニア統合学研究所(CIIS)が主催する、世界初のアヤワスカに関する国際会議、「アヤワスカ――アマゾンのシャーマニズム、科学、スピリチュアリティ」が開かれた。やはり集まってきたのはほとんどがユーロピアンアメリカンつまり白人で、研究者よりはむしろ、アヤワスカで私は人生の意味を知りました、というような体験者たちが大勢やってきて、各人のめくるめく体験談を熱っぽく語り合っていた。

邪術がもたらす均衡

 シピボの村のアヤワスカ儀礼で、ユダヤ系ブラジル人の放浪画家といっしょになったことがある。彼もまたアヤワスカの世界に魅せられた人の一人で、毎晩のようにあちこちの儀礼というか「飲み会」をハシゴしていた。一緒に「飲んだ」ときには、彼は、神がどうした罪がどうしたとややこしい理屈を口走りながら、バッド・トリップして苦しんでいた。周りのみんなが大丈夫かと声をかけると、彼は「いや、これは教訓なのだ。ありがとう。先住民族の知恵に感謝したい」といって必死に耐えていた。傍から見ていて、この人は大変な人だなあと思う反面、そういうバッドトリップ体験に共感できるところもあって、彼とはよい友達になった。
 ところで同じだけの量のアヤワスカを飲んでも、ウナヤ(シャーマン)はもちろん、シピボの人たちはあまりバッド・トリップというものをしないようだ。というかそもそもあまり派手な「酔い方」はしない。みな坦々としている。吐き気を催すといった生理的な反応は地元の人もお客さんもあまり変わらないようなのだが、内面的な体験はかなり違うようだ。「マリアシオン」と彼らが呼ぶ変容状態の中で、いろいろな精霊に出会い、ときにはおそろしい蛇やジャガーに遭遇することもあるらしいのだが、なんというか、自分自身の存在とか人生など、そういうものを内省的に考えさせられたという体験談をあまり聞かない。サイケデリック体験の核心は、極彩色のヴィジョンが見えるなどということではなく、狭い自我の崩壊と精神の拡大にあるのだが、どうやら地元の人たちは、崩壊させられるような硬い自我というものをはじめから持っていないようなのだ。逆にいうとユダヤ系やドイツ系や、あるいは一部の日本人というのは、化学的に強引に働きかけて壊さなければならないぐらい硬い自我を持っているのだろう。西洋人がサイケデリックスを摂ると、わざと羽目をはずして騒いでみたり、あるいはフリーセックスなどを主張したりするが、それはいわば近代的自我の影の部分なのだ。たとえばアマゾン先住民の社会はフリーセックスではないし、アヤワスカを飲んでも踊り狂ったりはしない。むしろ、西洋人の心の中に、たとえばフーコーがいうような意味で、性の解放、抑圧された本能の解放こそが人間の解放なのだ、というようなイデオロギーが埋め込まれていて、アヤワスカなどを飲むとそれが自動的に展開してくるだけなのではないだろうかと思いたくなる。
 僕が会った限り、アマゾンの先住民の人たちは総じてのんびりした感じで、大人でも子供みたいに素直な人が多くて、ちょっとシャイなところもあって、けっこう好感のもてる人たちではある。だからといって彼らが積極的にラブ&ピースな人たちなのかというと、そういうわけでもない。アマゾン上流域の先住民たちは伝統的にアヤワスカを飲み続けてきたが、彼らの社会ではつねに邪術(ブルヘリア)と戦争が絶えることがなかった。今でこそ戦争は国や教会によって禁止されているが、あいかわらず邪術は盛んだ。シピボの村で僕がホームステイしていた家は、外人を泊めてたくさんのお金を儲けているというので周囲の住人の嫉妬を買っていた。近所のユベ(邪術師)がその家にブラックマジックをかけていたということは後で知った。しかし嫉妬にもとづく邪術には社会的な均衡を保つという積極的な機能がある。その人がどんなに有能であっても、どんなに努力したとしても、特定の人に富が集中してはいけない。努力してたくさんの富を得ること自体は悪いことではないとしても、つぎには得た富を皆に気前よく分配しなければならない。シピボの村にはいちおう、村長さんのような人がいるが、ふつうのTシャツを着た、ヘラヘラした感じのじいさんで、なんだか頼りなさそうだ。しかし、こういう腰の低い人こそがリーダーとして適任とされるのだ。
 このような論理で富や権力の集中を嫌う社会は少なくない。「出る杭は打たれる」ということわざは、日本の社会にも同様の雰囲気が漂っていることを示している。インドネシアのバリも、シピボ社会と同じように邪術(「黒い」呪術)が盛んな社会である。お金持ちの家が盛大に葬式をやって財産を浪費するのは、一方では見栄と威信のゆえであり、他方では富の再分配という意味もある。富を浪費せずにため込むことは、社会的な不均衡を生み、嫉妬と邪術の攻撃対象になるのだ。
 また、アマゾン先住民社会における戦争というのは、近代国家が行なうような戦争、つまり市場の拡大や民族の独立といった大それたテーマとはあまり関係がなかった。むしろ、隣村の男に自分の奥さんを寝取られたので報復攻撃する、というような個人的な問題が原因であることが多かったようだ。シピボの人たちが首狩り戦争をしていたという記録はないが、同じアヤワスカ文化圏に属するヒバロ族は敵の首を狩って干し首にしていたことでよく知られている。首狩りというのは象徴的な行為だ。首狩り戦争では、集団Aと集団Bの間で、集団Aのメンバーが一人殺されたから、集団Bを襲って一人殺し返せばバランスが保たれるというような発想がある。考えてみればそれもある種の均衡であり、平和である。ただそこには一人ひとりのかけがえのない生命という近代的な観念はない。しかし、つい数十年前までそんなことをしていたなんて、やはりアマゾンの原住民は野蛮人だというわけにもいかない。日本人もほんの二、三百年前までは、首狩り族だったのだ。たとえば「忠臣蔵」のような首狩り報復戦争の物語は、いまでも多くの日本人を感動させつづけている。


蛭川立(2002)『彼岸の時間ー<意識>の人類学ー』春秋社、Pp. 265-273. 2016/2559-06-26 更新 蛭川立

科学と非科学の線引き問題

「科学」という日本語

まず最初に触れておきたいのが「科学」という日本語の意味である。日本語で「科学」というのは、もともと個別科学という意味だが、現在ではより強い意味で使われるようになっている。日本語で「科学」または「科学的」という言葉を使う場合、複数の意味が含まれているため、混同しないように注意しなければならない。たとえば以下のような含意が挙げられる。

(A)唯物論的な立場
 →これに対立するのは唯心論あるいは二元論。(「科学的」という言葉が「唯物論的」という含意を持ち、かつそれがマルクス主義的政治思想からみた「正しさ」を表す言葉としても使われることがあるが、この場合、対立する「誤った」概念は「観念論的」という言葉で表される。「観念 idea」を物質とも精神とも異なる独立した実在とみなす、三世界論という立場もある。)

(B)実証主義的な立場
 →これに対立するのは形而上学だが、実証主義は各種の実在論とも相反するので、物質実在論である唯物論とも対立する立場であり、どちらを「科学的」というのか、混乱することが多い。

(C)機械論的な立場
 →これに対立するのは生気論。

(D)還元主義的な立場
 →これに対立するのは全体論 holism。中間的な立場として構造主義やシステム理論などがある。

(C)と(D)はさておき、(A)と(B)の混同は入り組んでいるので整理する必要がある。たとえば「幽霊」について、科学的にみて存在するはずがない、幻覚に違いない、とするのが(A)の立場である。なぜなら(A)の立場は、非物質的な実体の存在を認めないからである。(B)の立場では「実在」するかどうかという問題は保留して、もし二人以上が目撃したり、写真に写ったりすれば、それは仮に存在するとして議論が進められる、と考える。

(A)と(B)の混同を避けるための、もっとも簡単な方法は、「科学」という言葉を使わないことであろう。しかし、もし使うのであれば、どちらの意味で使っているかを明確にする必要がある。古典力学を規範とする近代科学は漠然と(1)の立場—唯物論というよりは素朴実在論に近いかもしれない—から進められてきたが、相対性理論量子力学以降の現代科学は(B)の立場から進められている。

現代科学の文脈で、あえて「科学」という言葉を使うのであれば、(B)の立場であることを明示した上で、そのように使うのがよいだろうと考える。

科学と非科学の線引き問題

ある体系が「科学」であるかどうかという「線引き問題 demarcation problem」は、科学とは何かという定義にも大きく依存するものであり、明確な結論が得られていない。むしろ、あまり厳密に線を引くことはできないというのが結論だろう。有害な疑似科学は問題だが、有益な空想を妨げる根拠はないからである。つまるところ極論は「何でもあり anythinig goes」なのだが、それでも「科学的」であるかどうかの基準としては、おおよそ、

(1)理論が無矛盾であること
(2)理論が反証可能であること

の二点が挙げられる。さらに社会的、応用的な観点からすれば、価値依存的ではあるが、

(3)理論が有用である(または有害ではない)こと

という基準も加わる。

科学性評定サイトで挙げられている9個の基準のうち、(1)と関係するのが「論理性」「体系性」「普遍性」であり、(2)と関係するのが「透明性」「再現性」「客観性」である。また「予測性」は(1)と(2)の両方と関係しており、(3)に関係するのが「公共性」と「応用性」である。すべてを漢字三文字で「○○性」とするのは、なかなか語感が良いが、9個の項目を列挙するのはやや冗長であり、個々の項目の記述にも重複がある。もうすこし整理する必要があるだろう。

理論の無矛盾性と反証可能性

科学理論の用件についても諸説あるが、たとえばクーンは『本質的緊張』(和訳第二巻417頁)で「よき科学理論」の条件として「精確性 accuracy」「無矛盾性 consistency」「広範囲性 scope」「単純性 simplicity」「多産性 fruitfulness」の5項目を挙げている。

クーンの基準に挙がっている「精確性」は、おおよそ、よく知られたポパーの「反証可能性 falsifiability」(上記(2))に相当する。評定サイトでは「透明性」「再現性」「客観性」「予測性」の四つにまたがって関係しており、これは煩雑で冗長である。それは、反証可能性の中で社会的要因を論じているからだが、このことについては、社会的要因として別に分けたほうがわかりやすくなるだろう。これについては以下の「理論の社会的側面」で論ずる。

次に、上記(1)の無矛盾性に対応するのが、そのままクーンの「無矛盾性」であり、これは科学性評定サイトの「論理性」である。これについては、あまり細かい議論は必要ないだろう。

(1)から派生する要請として、反証不能でかつ無矛盾な理論であれば、より単純であるほうがすぐれた理論であり、またひとつの理論はより多くの既知の現象を説明し、かつまたより多くの未知の現象を予測するものであるほうがよい、ということが挙げられる。これはクーンの「単純性」「広範囲性」「多産性」に対応する。

この三点に着目すると、「単純性」という項目は科学性評定サイトには現れないが、場合によっては必要だろう。たとえば、メカニズムが不明な現象、たとえば「テレパシー」という現象を説明するために「第五の相互作用(力、場)」、あるいは精神現象に特有の相互作用を仮定するとすれば、四つの物理的相互作用ですべてが説明できるという既存の物理学理論に対して、それがより複雑であるという点に困難がある。逆に、現代の物理学は、すでに電磁気力、強い相互作用強い相互作用を一つの相互作用の別側面であるという統一理論を作り上げており、現在、重力を含むすべての相互作用を統一しようという方向で研究が進められている。これは「単純性」という点で、健全な方向性だといえる。

次に、クーンの「広範囲性」(これは「保守性」と言い換えたほうがわかりやすいかもしれない)と「多産性」は、おおよそ科学性評定サイトの「体系性」と「普遍性」に対応しているようだが、意味がはっきりしない。この二つの基準は、一つにまとめてもいいかもしれない。

たとえば「テレパシー」という現象を説明するのに「第五の相互作用」を導入しても、それが「テレパシー」だけではなく、既存の、四つの力によって説明される現象群よりも、より広い現象群を説明できなければ「広範囲性」の基準を満たさないし、また「テレパシー」以外の新しい現象が観測されることを予測しなければ「多産性」を満たさない。もしそれができないのであれば、「テレパシー」は既存の四つの相互作用の範囲内(おそらくは電磁気力)によって説明されるべきであり、あるいはその実験的証拠自体が否定されなければならない。

理論の社会的側面

次に、理論の応用面と社会的側面について検討したい。上記の(3)に関するものとして、評定サイトでは「公共性」と「応用性」が挙げられている。まず「応用性」は、純粋に有用かどうかという評価として考えられる。

社会的な文脈における科学のあるべき姿としては、マートンの「マートン・ノルム Mertonian norms」、つまり「普遍主義 universalism」「公有性 communism」「利害の超越 disinterestedness」「系統的な懐疑主義 organized scepticism」がよく知られているが、これらには強い政治的な含意があり、現代の日本の疑似科学を論じるにあたっては、幸か不幸か、あまり網羅的に問題にする必要はなさそうである。

しかし「公有性」は、有益であることが確認されたものであっても、その利益が特定の集団に占有されていてはならないという要請であり、応用性について論じる場合には、この公有性は考慮されなければならないだろう。これは、評定サイトの「公共性」と重なる部分が大きい。

さて、すでに指摘したことだが、評定サイトにおける「透明性」「再現性」「客観性」および「公共性」は、(2)と(3)にかかわる問題として挙げられているが、これは冗長であるように思われる。

ある理論が反証可能でない理由として、まず、理論自体に反証可能性が内在されていない場合がある。たとえば、ある療法により症状が軽減すれば「効いた」ということになり、症状が悪化すれば「好転反応」だとする場合、「好転反応」というものを明確に定義しなければ、理論は反証不能になる。

一方、反証を妨げる要因として、より社会的な要因がある。たとえばEM菌の効果について、関連する研究機関で行われた研究結果だけが偏重されるという問題が指摘されているが、追試の手続きが公表されており、かつ誰が追試しても反証されていない、という用件が満たされなければ、反証可能性は保証されない。この点について、評定サイトではすでに見たように「透明性」「再現性」「客観性」および「公共性」の四つの項目を立てており、たとえばEM菌についての項目には、外部の研究機関による追試が難しいという、同様の主張が繰り返し書かれている。これはうまく整理できないだろうか。

(2016/2559-06-18 作成 蛭川立

アマゾン先住民シピボのシャーマニズム

豊かな<南>の社会

 アマゾン上流で最大の支流のひとつであるウカヤリ川は、アンデスの高地から流れ出す小さな支流を集めながら、ペルー領内を細かく蛇行しながら北上する。その流れにそってシピボまたはコニボと呼ばれる、パノ系の言語を話す先住民族が暮らしている。

 ウカヤリ川に沿って発達した、ウカヤリ州の州都、プカルパの近郊に作られた、サンフランシスコ共同体は、シピボの最大の集落である。シピボの人々は、もともと、焼畑を繰り返しながら半定住的な生活を送ってきた。大規模な集落は、キリスト教系のミッションの後押しによってつくられたものである。

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 三月はカルナバル(カーニバル)の季節である。人々が、集落の中央に十字架を立てる。建前上はキリスト教が受け容れられている。流れる音楽の旋律は、アンデスフォルクローレである。アマゾン先住民独自の文化、ケチュア語などのアンデス文化、カトリックなどのラテン系文化の、三層からなるシンクレティズムが、この地域の文化を特徴づけている。

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 世界の各地の春祭りと同様、カルナバルでも、お互いに水をかけあうという習慣がある。男の子たちが、風船に詰めた川の水を、女の子たちにぶつけている。好意を悪戯で示す、そういう年頃である。二十歳前ぐらいから母親になる女の子たちも多い。かつては成女儀礼として、膣口を切開して広げる手術が行われていたという。これは、父系社会における女子割礼と好対照をなしている。妻方居住婚が行われており、はっきりした出自集団は存在しないが、母系的な色合いの濃い社会である。

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(学校に張ってあるポスター。左は家族計画を呼びかけるもので、右は自分たちがペルー共和国という国家に属するのだということを学ばせる塗り絵。)

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(船に乗ってサンフランシスコまでやってきた「選挙船」。2000年の大統領選挙は、現職のアルベルト・フジモリに投票するように訴えている。文字が書けない人のために、投票用紙には、このように書きましょう、という指示もある。)(政治的活動の写真を撮ることはには、十分な注意が必要である。)

 子育て、主食であるマンジョーカを栽培すること、料理すること、洗濯など家事一般、そして布や土器などの手芸・工芸は、主要な現金収入源でもあり、女の仕事である。女性の経済的地位は高い。

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(マンジョーカ(シピボ語ではユカ)の畑。手前が焼かれた部分。マンジョーカは、茎を地面に刺しておくだけで簡単に増えていく。)

 とくに、土器を上手に作ることは、女性の仕事の象徴である。女たちは、自分のお気に入りの粘土がある場所を、他の女には知られないようにする。(この奇妙な慣習とその神話的意味については、レヴィ=ストロースの『やきもち焼きの土器作り』に詳しい。粘土の起源神話にかんする抽象的な議論は「起源神話における時間対称性の破れ」と「対称変換としての文化起源神話」を参照されたい)。家の中で女性がせっせと働き、男たちは家の外で手持ち無沙汰に立ち話などしているという光景は、とりわけ熱帯の母系的社会によく見られる光景である。

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(コリン・ラビさんがお土産用に売っている壺。容器としての妊婦は、縄文時代中期の土器を彷彿とさせる。ユングノイマンのいう普遍的な大母 Große Mutter 元型 Archetyp である。)

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 腰巻きにする布に、特徴的な幾何学模様を刺繍しているのは、私が居候していた家のお母さん、エリサ・バルガス Elisa Vargas さん。後で触れるアヤワスカという薬草茶を一服したときに見えるビジョンがモチーフだとも、またピリピリ piri piri (Cyperus corymbosus) という植物(写真下)を目に垂らしたときに見える模様だとも言われている。(これもまた女の領分なので、私はこの秘密の目薬を試すことはできなかった。)

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 一方、男の仕事は、川で魚を捕ることであり、また森で小動物を捕ることもある。現在では、カヌーで町に買い出しに行く仕事もある。もっとも象徴的なのは、薬草の助けを借りて、精霊の世界の知識を深めることである。かつては男たちの重要な「仕事」だった戦争は、もう行われてない。

 男が捕ってきた川魚をおかずにして、ゆでたり揚げたりしたマンジョーカやバナナを食べるというのが伝統的な食事である。

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 上の写真は、近所のフリオ・ウルキーヤさんと一緒に釣ってきたピラーニャをニンニク味で挙げたもの。揚げたバナナは定番の主食。船の上から、生肉を針の先につけた糸を垂らすと、あっという間にピラーニャが殺到してくる。これで一家族、数人の、一日ぶんの食料をまかなおうとするのであれば、三時間ぐらいあれば充分である。薬草についての知識に長けた人たちであり、毒を撒いて魚を殺し、一網打尽にする技術も持っている。

 じっさい、R・ヘイムズは、アマゾンの焼畑農耕民シピボ、ママインデ、ワヤナ、ヤノマミ、ヤノマモ、イエクワナ、メクラノティ、マチゲンガ、アチュアラ、ワヤナの10民族で調査された労働時間を集計して、その平均値を計算している。それによると、一日あたりの平均労働時間は、女性のほうがやや長いが、共に約5時間だという。これは、狩猟採集民、集約農耕民、および現代の賃労働者と比べて最短である。労働時間の短さは、それだけの時間働けば食べていけるということを意味しており、それはまたその社会が持っている時間的余裕、ある種の豊かさを表している。ヘイムズはアマゾンの先住民こそ世界でもっとも時間的に豊かな人々であると結論している。逆に、もっとも時間的に貧しいのは、もっとも文明化された現代の賃労働者か集約農耕民かのどちらかだということになる。(ヘイムズがまとめた労働時間の一覧表はこちら

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 新世界ザル(アメリカ大陸のオマキザル科のサル)であるリスザルは賢く、ペットとして可愛がられている。シピボの人たちは、互いに頭髪のシラミを取り合う(グルーミング)ことで、互いの親愛を深めるが、ペットのリスザルを「肩乗り」として飼い慣らすと、頭髪のシラミをとってくれるようになる。しかし、このリスザルは、重要な来客をもてなすときのご馳走にもなる。

アヤワスカ

 シピボのシャーマニズムの中核をなすのが、アヤワスカという薬草茶を用いた「茶会」である。ウナヤ、あるいはムラヤ、またスペイン語でクランデロ(治療者)と呼ばれるシャーマンが、時には自分一人で、または数人の来談者と共に、アヤワスカを服用し、サイケデリックな変性意識状態に入り、精霊の助けを借りて、病気の原因を探したり、病気を治療したりする。

 アヤワスカ茶は、やはりアヤワスカ(シピボ語ではオニ)と呼ばれる蔓植物と、チャクルーナ(シピボ語ではカウア)と呼ばれる植物の葉を煮込んで作られる。

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アヤワスカの蔓)

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(チャクルーナの若い苗)

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 エリサ・バルガス Eliza Vargasさんの夫、アルベルト・サンチェス Alberto Sanchez さんと、その父親であるロベルト・サンチェス Roberto Sanchez さんが、アヤワスカ茶を準備している。女たちがお気に入りの粘土のある場所を秘密にしているように、男たちもお気に入りのアヤワスカやチャクルーナの生えている場所を秘密にしている。上記の写真は、アルベルトさんの庭にあるちいさな植物園に植えられているものである。

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 「茶会」は、夜半前から始まり、夜明け前には終わる。ロベルトからお茶を振る舞われる、プカルパ在住のメスティソの友人、ウェリントン君。何時間も煮詰められたアヤワスカ茶には、コーヒーをもっと濃厚にしたような、苦みと酸味がある。また、服用直後には強い吐き気を伴うことが多い。何度も飲んだことがあると、味を感じただけで反射的に吐き気がしてしまう人も少なくないという。

治療儀礼

 別の治療儀礼の準備をするロベルト。シャーマンは世襲制ではないが、息子のアルベルトが助手役をつとめている。ふだんは婿入りした妻のエリサの家に住んでいるが、儀礼の時には実家である父親の家に戻ってくる。

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 ロベルト自身はは、熱心なクリスチャンだった父親に、子どものころから何度も聖書を読まされた。14歳の時、いつものように聖書を読んでいたとき、ロベルトはその聖なる言葉の中に光を見た。目も眩むような、真っ白な光だったという。それが、彼をシャーマンへの道に進ませた「回心」の体験だった。カトリック教会は、こうした神秘体験や、民間の信仰治療には許容的である。

 アメリカなどから来ている、プロテスタント新宗教のミッションの中には、先住民の呪術的伝統を嫌う動きもあるが、シャーマンの側のアルベルトは「あいつらファナティコ(狂信的)だからな」と言って、嫌悪感を顕わにしていた。「迷信」の中に生きている先住民のほうが、教化のためにやってきたミッションを見下しているところもある。シピボの伝統的な世界観によれば、天上に精霊たちの住む世界があって、階段のような通路で地上とつながれているという。そして、アヤワスカ茶を飲むことで、そこへ昇っていくことができるのだという。アルベルトはその「旅」を宇宙旅行にたとえる。「グリンゴギリシア語を話す人々→意味不明な言葉を話す人々→英語を話すアメリカ白人、に対するやや侮蔑的な呼称)はロケットで月に行くらしいけど、われわれにはロケットなんて必要ない。アヤワスカで月にも別の惑星にも行けるんだからね」

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 シピボの伝統的な家屋には柱だけがあって壁がない。マパーチョという特別なタバコの煙を吹いて、邪悪な精霊や妬みから儀礼の場を守る「結界」を張る。いわゆる「未開」社会では、互酬性にもとづく平等主義が一般的で、積極的な妬みにもとづく邪術も盛んである。シピボの社会にも「ユブ」と呼ばれる邪術師が存在する。

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 瓶に入っているのは治療儀礼用の特殊な水で、ロベルトがそれに向かって精霊の歌、イカロを歌う。イカロの旋律は、どこか、もの悲しい。イカロを歌うシャーマンの発声は、まるで電子音のようでもある。感情的要素の強いラテン系文化とも、またアンデスのケチュア系文化とも異なる、アマゾン先住民独自の音楽的世界である。

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 この日にやってきたのは、発熱がおさまらない赤ん坊を連れた若い両親である。サンフランシスコのような共同体では、病院で近代的な医療も受けられるが、それでは治らない場合、シャーマンのところに行く人も多い。精霊の歌が込められた水やタバコの煙を吹きかけて病気を治療する。この「気」を「マリリ」という。マリリという実体がクライアントの身体に働きかけるという考えもできるし、マリリを象徴的な構成物だと考えることもできる。近代的な医学による検査で異常が見つからなかったものは心因性の病気である可能性が高く、象徴的効果・プラセボ効果が自然治癒を早めることがあるのは事実である。

 乳児にはプラセボ効果は効かないかもしれない。ロベルトは父親も「治療」しているが、あるいはこの両親の間に問題があるのかもしれない。問題を抱えた親子や夫婦などの全体を診ようとする姿勢があるとすれば、これも精神医学・臨床心理学においては先進的な発想だといえる。

 タバコの原産地がアマゾンであることは、意外に知られていない。写真は、マルバタバコ。

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 儀礼で用いられるタバコは、マパーチョと呼ばれる。下の写真の左下に置かれているのが、マパーチョである。

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(プカルパのタバコ屋さんと、その息子のウェリントン君。滞在中には、いちばんお世話になった。元々は軍人だったが、エクアドルとの国境紛争に従軍し、戦争の空しさを悟ったという。軍隊を離れたあと、後に触れる、パブロ・アマリンゴと出会い、その平和的な人柄に惹かれ、ウスコ・アヤール絵画学校の教師となった。)

シャーマニズムの観光化

 1980年代から、サンフランシスコ共同体は、ペルーにおける「アヤワスカ・ツーリズム」の中心地としても栄えており、主に欧米から、近年では日本から、多くの「観光客」を集めている。一定の「修行」を修め、シャーマンになる人々も現れている。

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(西暦2001年に改装されたプカルパ空港。シピボの泥染めが職員の制服になっている。)

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(写真の看板には「アヤワスカの儀礼センター(中略)へようこそ!」と書いてある。広告を出している「San Juan」は、ビール会社である。)

 もちろん、私自身も、そうしたツーリズムに乗せられた一人である。下の写真は、エリサ・バルガスさんと、アルベルト・サンチェスさんと、その子どもたち、近所の子どもたちである。

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(エリサとアルベルトの家では、ベッドつきの快適な個室に滞在させてもらった。アルベルトは、外人を家に泊めて自分だけが金持ちになろうとしているという理由で、ユブによって呪いをかけられていたらしい。呪いには、富の偏在を防ぐという社会的機能がある)

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 同じサンフランシスコ共同体のウナヤ、マテオ・アレバロさん。やはり、治療儀礼でタバコの煙を使っている。頭頂や手のひらなど、いくつかの重要な場所に「気」を吹きかけている。とりわけ頭頂にある「穴」が通っていることが重要だとされるが、これは、中医学における百会や合谷などの経穴の概念とよく似ている。あるいは、ハタ・ヨーガにおけるサハスラーラ・チャクラとも類似した観念である。

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 通常の治療儀礼では、シャーマンがアヤワスカを飲むが、マテオさんは、来客にもアヤワスカ茶を振る舞っている。おおよその相場は、一杯三千円ぐらいで、現地の物価からみて、それほど安いわけでも、また、それほど高いわけでもない。マテオさんは、敢えて泥染めの民族衣装を着ているが、左腕には立派な腕時計をしている。といって、彼は特別に貪欲な人間ではない。村の中には同じようにツーリストを受けいれるシャーマンたちが多数いて、なんとなく共存している。悩める外人たちが、森の精霊たちの智慧を求めて、はるばる飛行機に乗って飛んでくる。村の子どもたちは、液晶画面に映し出される「ポケットモンスター」の精霊たちに見入っている。奇妙なすれ違いが、なんとなく共存している。

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(上:「『トリムルティ』ただいま上映中」、下:「ドラゴンボールZ(セタ)」。プカルパのようなアマゾンの田舎町でも、実写映画はインド産、アニメは日本産に席巻されている。「トリ・ムルティ」とは、ヒンドゥー教における三位一体、つまり、ブラフマー(創造神)・ヴィシュヌ(維持神)・シヴァ(破壊=再創造神)のことである。)

 富や権力の偏在は、平等主義的な社会では忌避される。サンフランシスコ共同体には、村長の胸像が建てられている。彼はその像を指さしては当惑し、カタコトのスペイン語で、これでは私がもう死んでしまったみたいじゃないか、と、苦しい冗談を言って、苦笑いしていた。典型的な「未開」社会における、望ましいリーダー像というのは、周囲の人の話をよく聞く、自己主張の弱い、腰の低い、物わかりの良いおじさんである。強いリーダシップは、妬みと邪術の対象となる。これは、日本人の社会とも似ている。

アヤワスカ茶の内的宇宙

 アヤワスカ茶は、有効成分であるDMTなどの作用で、精神展開(サイケデリック)作用を引き起こす。その体験世界は写真に撮影することも、動画に収録することもできない。女たちが作る土器や布が、その視覚的体験を写し取っているが、伝統的な美術工芸に、具体的な精霊などの姿が描かれることはない。

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(上:Loneta Teñida(画)Roldán Pineda・Elena Valera(布)『Curación Mediante la Toma del Ayahuasca(アヤワスカの治療儀礼)』、下Dibujo de Marcial Vásquez・Elí Sánchez『Cosmovisión』いずれもアマゾン博物館 Museo Amazónico (イキトス市)所蔵。作者は全員シピボ。)

 上の絵は、アヤワスカ茶会の様子を描いたものである。中央下部でシャーマンが治療儀礼を行っているが、背景には、「現実」世界の家や森、星空と同時に、精霊たちの姿が描かれている。これは、アヤワスカ茶を服用したときに見える光景を、かなり写実的に描いている。下の絵は、こうした儀礼的体験に対応する世界の構造を描いている。世界は層状になっており、一番下に、日常的な「現実」世界がある。アヤワスカ茶を服用することで、この複数の世界を行き来することができる。

 先住民文化の外部で、アヤワスカ茶を服用したときの内的体験を、より正確に描き出すことに成功したのが、プカルパのメスティソ、パブロ・アマリンゴ Pablo C. Amaringo である。彼は、メスティソ社会に浸透してきた先住民のシャーマニズムの影響を受けてクランデロになったが、がんらい争いごとを嫌う温厚な人物であり、クランデロどうしの妬みによる黒呪術戦に疲れ果て、引退し、専業の画家となった。その作品は世界中から広く注目されることになり、その収益と海外からの援助によって、1988年に、プカルパ市内にある自宅を改築して「ウスコ・アヤール(精霊の子どもたち)」という絵画学校を設立した。(私も居候してアクリル画を学んだ。)

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(ウスコ・アヤール絵画学校にて、パブロ・アマリンゴと著者)

 アマリンゴさんは、アヤワスカのビジョンよりは、むしろ風景画を好み、絵画学校に集まってくる子どもたちにも、森の風景の描き方を教えていた。アマリンゴさんは、あるアヤワスカ茶会のビジョンの中で、宇宙船に乗せられ、銀河系の中心で行われている賢人会議に連れて行かれたという。彼が持ち帰ってきたのは、失われつつある森を守れというメッセージだった。体験後、価値観が変わり、環境保護活動などに傾倒していくのは、西洋のエイリアン・アブダクション体験と似ている。

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 サンフランシスコの、マテオ・アレバロさんも、アヤワスカ茶会のビジョンの中で、エイリアンに遭遇したという。彼に頼んで、その姿を書いてもらったが、欧米で流行しているエイリアンの姿とそっくりである。

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 こうした体験は、おそらく外部の文化との接触によってもたらされたものだと推測されるが、逆に、いわゆるエイリアン・アブダクションという体験と、アヤワスカの有効成分であるDMTの作用に、神経科学的な関係があることが指摘されており、ヒトという種に普遍的かもしれない脳内メカニズムを解明する手がかりとなっている。

 アマリンゴさんは、アヤワスカのビジョンの世界は、今の時代なら手描きの絵などではなくCGで再現できるだろうと語りつつ、2009年に精霊の世界へと還っていった。享年74才であった。

 オランダの映画監督、ヤン・クーネン Jan Kounen は、映画『Blueberry』の中で、サンフランシスコ共同体などでの自らの体験を、作品のストーリーに織り込みながら、映像化を試みている。多分に誇張されているとはいえ、これは西洋人的なアヤワスカ体験の世界を描写するのに、かなり成功しているといえる。

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 シピボの人たち自身は、幾何学模様や、精霊の姿に、神話的な意味を見いだしているが、西欧系の人々などの、近代化された自我に対してアヤワスカ茶が働きかけると、自我が強固に構成されているぶんだけ、それが脱構築されるとき、より実存的な、そしてより超越的な体験が引き起こされる。過去の記憶や、その意味などに対する内省が呼び起こされ、ときにはその後の世界観・人生観が大きく変わってしまう。これは、本来の先住民文化の文脈には、なかったものである。

 先住民が治療儀礼に用いていた薬草が、その伝統文化の文脈を離れ、近現代社会において顕著になってきた、心因的な、神経症的な問題を解決したり、哲学的洞察や芸術的創造とも併せて、近代社会を超克する、いわばポスト・モダンな文脈でグローバル化していく可能性を秘めている。とりわけブラジルのアヤワスカ茶系新宗教運動(サント・ダイミ、ウニオン・ド・ヴェジタル、バルキーニャ)は、サンパウロなどの大都市を通過してグローバルな展開をみせているが、このことは、また稿を改めて議論したい。


※以上は、主に西暦2000〜2001年の滞在にもとづいて書かれたものであり、現在とは内容が異なる部分があります。「このブログの記述の不十分さと、オンライン情報源へのリンクについて」のページもご覧ください。スパートフォン等で、写真をタップしても拡大されない場合、いったん画像を保存してから見直すか、パソコンから閲覧してください。

※参考文献:蛭川立(2003)『彼岸の時間−<意識>の人類学−』春秋社

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(2016/2559-06-10 作成 06-30 更新 蛭川立

このブログの記述の不十分さと、オンライン情報源へのリンクについて

 このテキストは、商用ブログである「はてなブログ」上にアップされています。特定の語句には、はてな独自のオンライン事典である「はてなキーワード」に自動的にリンクが張られています。その他(「はてなキーワード」への自動リンクを回避するという意図もあって)「wikipedia」や「youtube」などの情報源にもリンクを張っています。ただし、オンラインで公開されている情報は、すべてが正確なわけではありません。もっとも、その不完全性は、活字として紙に印刷されている情報でも同じです。このブログ自体の記述も百パーセント正しいとはいえません。

 しかし、重要なことは、完全な情報を求めることではなく、情報を批判的に利用することです。インターネット上でハイパーテキスト化された情報は、いわば人類の共有財産であり、その重要性は、紙媒体を急速に追い越していくでしょう。このブログを一般に公開していることも、そのような情報の共有化に、試験的に参加するという意味もあります。

 さて、情報を批判的に読む方法のひとつは、ある程度の専門知識のある人の注釈とともに読むことです。講義というのは、そのような注釈です。ネット上にアップしている教材は、講義の要点だけをざっと書き記したものであり、それだけでは不十分です。書いた当人の注釈を聞くことで、それは、より意味のある情報になります。質問があれば、その場で書き手に聞くことが出来ます。それが、授業料を払って授業を聞くことの意味でもあります。


(2016/2559-05-12 作成 蛭川立

明治大学蛭川研究室へのアクセス

研究棟はエッシャーの世界

明治大学駿河台キャンパスの建物群への行き方については、大学の公式サイトに「アクセスマップ」があります。しかし、研究棟がどこにあるのかは書いてありません。Googleマップにも書いてありません。

とある研究室のサイト上に、印刷可能な詳細な地図があります。ただし、ここ数年、校舎の建て替えが次々と行われていて、この地図と現状はすこし変わっています。

研究棟の二階以上は研究室になっており、二階に221号室があります。研究棟への入り口は主に三カ所あり、アクセスには四通りあります。リンク先の地図の順に従って書きます。

(1)まず、リバティータワー(23階建、近隣で最も背の高い建物)に入り、三階に上がります。そこから渡り廊下を渡って、研究棟の四階に行くことができます。

(2)リバティータワーの一階を通り抜け、いったん外に出てから、研究棟一階の守衛室のある入り口に入ることができます。

その他のアクセス方法としては以下の二通りがあります。

(3)裏側の、金華公園側の道路から階段を昇って、研究棟一階の守衛室のある入り口に入ることもできます。階段を昇ったところが研究棟の一階になります。

(4)山の上ホテルの左手から、木立の中の小径を歩いて行くと、守衛室のない、もう一つの入り口に入れます。地上から水平な道を辿った先ですが、研究棟に入るとそこは三階です。

さて、研究室へのもっとも確実なアクセスは、研究棟一階の守衛さんに行き先を告げ、内線で電話してもらうことです。しかし、「関係者」は守衛室の前を素通りすることもできます。研究棟三階の入り口には守衛さんはいません。代わりに「関係者」以外は立ち入ることを禁じる旨の看板が立っています。「関係者」を明確に定義することは困難ですが、いずれにしても、三階の入り口は、休日や深夜には閉まってしまいます。

実は、研究棟には、もう一つ、地下の秘密の通路があり、深夜や休日にはそこを通ることもできるのですが、ここでは、これ以上触れないことにします。

(2016/2559-05-05 作成 蛭川立